甲子園の風BACK NUMBER
夏春連覇“あの名門公立校”なぜ甲子園から消えた?「美談は言わないよ」現地取材でポツリ…日本中が熱狂「神様になった監督」池田高野球部のナゾを追う
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph byNumberWeb
posted2025/08/02 11:00
1980年代初頭、超攻撃野球で社会現象を巻き起こした名門・池田高校(徳島県三好市)
夕刻の阿波池田駅前はがらんとしていた。眠たげな商店街。歩く人はまばらだ。すこし歩けば池田高校を望める。薄墨色の霧にむせた山が背後に佇む。そのせいだろう。校舎は厳かな雰囲気を漂わせていた。
取材冒頭、話を聞いた関係者すべての人々に趣意を伝えた。
「池田の時代」を私は知らない。だからこそ惹かれるものがあった。なぜ山間の地方公立校が黄金時代を築けたのか。蔦文也とは何者だったのか。そしてなぜ池田は甲子園から消えたのか。
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すると一様に「池田が強かった理由」を説明してくれた。木製バットから金属バットへ変わった時代と重なったこと。小技野球でなく打ち勝つ野球が革新的であったこと。筋トレをいち早く取り入れたことで他校選手のパワーを凌駕していたこと。いずれも事実ではあるのだろう。が、プレゼンを聞いているかのような、いかにも説明慣れしている感を覚えないわけではなかった。
「全国放送で阿波弁を…」だから蔦は愛された
蔦と池田が与えた衝撃について、初めて合点したのは池田の現校長・原史麿の言葉だった。原は蔦の孫、哲一朗の高校時代の担任教諭でもあった。
「修学旅行で東京に行くんですよ。そこで徳島から来ました、と言っても東京の人の反応が鈍いわけです。でも池田から来た、と言えば100%通じました。あの野球の? と。私らの世代、50代から上で池田を知らない人はいないというくらい有名でした」
そしてこうも続けた。
「やっぱり田舎だから。卑屈なところがあるんですよ。当時はインターネットもなかったし、自分の地元以外、特に都会ともなれば未知の場所。東京や大阪に出ていきたいけど気後れしてしまう。自分たちは田舎もんだからって。そんな時代に蔦監督が現れた。試合後のインタビューで蔦監督は堂々と阿波弁で喋ったでしょう。あれで阿波の人たちは認められたような気持ちになったというかね」
カタルシスを感じたのは池田町民だけではなかった。蔦の語り口は日本人にそれぞれの故郷を想起させた。都会の強豪を次々に倒す地方公立校の監督。シルバーヘアをなびかせた武骨な風貌。カメラが向けば名言を放ち、丸刈り球児に人生訓を説いた。まるで漫画に出てきそうな「大酒飲みの傑物監督」というキャラクターは野球に興味のない層にまで浸透した。その意味で、蔦は日本で最も愛された高校野球監督といえる。
そうした蔦文也の英雄像を私もすっかり信じ込んでいた。ある人物に話を聞くまでは。
〈つづく〉



