甲子園の風BACK NUMBER
4球団競合ドラ1でも…「プロ7年間でまさかの0勝」あの“消えた天才サウスポー”が高校野球“名門校”の監督になったワケ「恩師に恩返しを…」
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沢井史Fumi Sawai
photograph byFumi Sawai
posted2025/07/15 11:02
1997年夏の甲子園で準優勝→4球団競合後にオリックスに入団した川口知哉。栄光と挫折を経て、今季から母校の監督に就任した
女子プロ野球にはコーチ時代も含めて12年間携わった。女子に野球を教えるのはまた違った感覚だったという。
「最初の3年は結構苦労しました。(選手間で)派閥を作るとか、チームの中で色々あったんですよ。なんであの子にだけ、みたいな不平不満が出たこともありましたしね(苦笑)。ようやく慣れてきたのは4年目を過ぎたくらいだったんですけど、慣れれば特に難しいことはなかったです。
京都のチームに限らず、兵庫県のチームとか色んなチームに関わらせてもらって、相手チームのことも分かるようになったし、自分たちの弱点も客観的に見られるようになったし。こうしたら勝てるよとか、色んな考え方もできました」
女子野球の指導者を経て…3年前に母校へ
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その後、22年4月に母校にコーチとして戻ることになった。
実はかねて川口がずっと気にしていたこともあった。
「僕の知らないところで“(前任の)原田(英彦)監督は最後に川口に託したいらしい”みたいな噂がずっとあったみたいなんです。僕は女子野球を指導していた頃から、ゆくゆくは高校野球の指導をしたいとは思っていました。でも、平安をすっ飛ばしてどこかの高校へ行く訳にも行きませんし、まずは母校で原田監督に恩返しをしたいとずっと思っていたんです。
女子野球界も実は原田監督が繋げてくださったお陰で携わることができたんです。もし、女子プロ野球が今でも存続していたら、今こうやって高校野球の場にはいなかったかもしれません」

