甲子園の風BACK NUMBER
4球団競合ドラ1でも…「プロ7年間でまさかの0勝」あの“消えた天才サウスポー”が高校野球“名門校”の監督になったワケ「恩師に恩返しを…」
posted2025/07/15 11:02
1997年夏の甲子園で準優勝→4球団競合後にオリックスに入団した川口知哉。栄光と挫折を経て、今季から母校の監督に就任した
text by

沢井史Fumi Sawai
photograph by
Fumi Sawai
全国各地で甲子園に向けた地方大会の幕が上がり始めている。激戦区・京都で優勝候補の一角、龍谷大平安高の監督に今年から就任したのが川口知哉だ。かつては同校の大エースとして甲子園で準優勝。その後は4球団競合の末にオリックスへとドラ1入団したものの、プロでは1勝も挙げることなく現役を引退した。野球界での栄光も挫折も知る苦労人は、なぜ高校野球の世界へと戻ってきたのか。その胸の内を本人に聞いた。《NumberWebインタビュー全3回の3回目/最初から読む》
現役引退後は、家業である住宅の外装関係の仕事に携わった。
その傍らで知人を介して少年野球を指導する機会もあった。その後、2010年から京都アストドリームスなど女子プロ野球のコーチを歴任し、18年から京都フローラの監督に就任した。
教える立場となって、また「難しさ」を感じることになる。
ADVERTISEMENT
「その人に合うのか合わないのかを見極めるのは簡単なことではないです。でも、自分の場合はそこで苦労をしたので、実際に指導者になってみて、この子はこうした方がいいんじゃないか、というのが何となく分かったことがありました」
引退後の少年野球で感じた「指導の喜び」
それは現役引退直後、少年野球チームで子どもに指導していた時だった。
まだ指導経験がほとんどない頃だったが、その少年の所作や状態を見て、こうしてみた方が良いんじゃないか、とアドバイスをしたことがあった。
「もちろん、押しつけはしません。感覚的なものというか、ちょっとこうしてみたら……みたいな感じで言ってみたら、その子の状態がどんどん良くなっていって。そういう姿を見られたのは嬉しかったです。僕はプロでピッチングコーチから色んな引き出しを聞いてきたので、やっぱり覚えているんですよね。自分にとっては分からないけれど、この子ならこの方が合っているとか。
実際に指導者になって、プロでの経験を生かしていけるんじゃないかって。正直、プロでは良い思い出はあまりなかったんですけど、今となればすごい財産だったんだと思えるようになりました」

