甲子園の風BACK NUMBER
「甲子園で準優勝→4球団競合ドラ1」の“天才サウスポー”はなぜプロで1勝もできなかった? 「何でも鵜呑みにしてしまって…」本人が語った7年間の苦悩
posted2025/07/15 11:01
1997年夏の甲子園で準優勝した京都・平安高校のエースだった川口知哉。4球団競合の末にオリックスに入団したが、そこで大きな壁にぶつかる
text by

沢井史Fumi Sawai
photograph by
Sankei Shimbun
全国各地で甲子園に向けた地方大会の幕が上がり始めている。激戦区・京都で優勝候補の一角、龍谷大平安高の監督に今年から就任したのが川口知哉だ。かつては同校の大エースとして甲子園で準優勝。その後は4球団競合の末にオリックスへとドラ1入団したものの、プロでは1勝も挙げることなく現役を引退した。野球界での栄光も挫折も知る苦労人は、なぜ高校野球の世界へと戻ってきたのか。その胸の内を本人に聞いた。《NumberWebインタビュー全3回の2回目/つづきを読む》
1997年のドラフトで、4球団から1位指名。抽選の結果、オリックスが交渉権を獲得した。
京都・平安高校の川口知哉は、まさに鳴り物入りでNPBの門を叩いた。
年が明けてすぐに新人選手の合同自主トレが行われるのが現在の常だが、当時の新人合同自主トレは強制参加ではなかったという。
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「自分は1月に授業がまだあったので、新人合同自主トレには参加しなかったんです。1月末に卒業試験を受けて、キャンプに合流したのは2月3日でした。でも、自分が合流する頃には新人選手同士のコミュニティがすでに出来上がっていて、新人選手で高卒は1人だけだった自分は蚊帳の外みたいな感じでした」
出だしから躓いた「1年目のキャンプ」
遅れてキャンプに合流するも、そもそも練習の流れすら分からない。
自分の担当スカウトが時折、サポートのためについてくれてはいたが、常に一緒にいる訳でもなく練習周りのちょっとした質問ができる“身近な存在”がいなかった。
「当時、キャンプの宿舎ではピッチャーで一番年の近い先輩が4歳上の平井(正史・現オリックス二軍投手コーチ)さんでした。僕からすると平井さんって新人王を獲ったとんでもない先輩でしたし、自分から話し掛けるなんてとてもできなかったです。
向こうからしても、2日も遅れてキャンプに参加した高卒新人なんて偉そうとしか思っていなかったはず。いきなり仲良くできるはずもなかったです」

