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阪神で24選手“まさかのクビ宣告”…戦力外を告げた本人明かす“星野仙一に任命された日”「お前は、北海道から沖縄まで評判が悪い。なんでや?」
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岡野誠Makoto Okano
photograph byJIJI PRESS
posted2025/07/08 11:00
2002年オフ、阪神は24選手を解雇し、「血の入れ替え」を行った。戦力外を告げたのは当時編成部長、黒田正宏だった
「もともと、根本さんは同じ大学ですからね。南海時代、法政の先輩に紹介されたんですよ。だから、家の電話番号も知っていた。『どうしたんですか?』言うたら、『まあまあ楽しみにしとけ』って。何かと思ったら、トレードですわ」
「球界の寝業師」から学んだ日々
片平晋作とともにライオンズに移ると、根本は黒田の住居を自分の近所にした。本拠地・西武球場まで車で15分程度の所沢市・小手指である。「球界の寝業師」としてチーム編成で敏腕を振るう根本に、黒田は薫陶を受けた。
「試合が終わった後、根本さんの家の近くの橋を渡ると、(自動車電話に)『今、どこだ? そのまま家に来い』と連絡が来るんです。『いや、嫁がご飯作ってます』と断っても、『そのおかずを持って一緒に来い』と。球場から帰る時間を見計らってんねん」
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黒田夫妻が訪れると、寿司やすき焼きなど豪華な食事が毎回振る舞われた。妻が帰宅すると、2人は延々と野球の話を続けた。
「ピッチャーや野手のこと、いろんな話をしましたね。『勉強せえ』って、よく段ボールいっぱいの資料をもらいました。西武にトレードされて、本当に良かった」
82年、根本のチーム編成と広岡達朗監督の指導力が融合し、西武は中日を下して日本一に。翌年、巨人を倒して2年連続の栄冠に輝いた。黒田は85年に兼任コーチとなり、オールスター明けに引退した。
「まだ辞めたくなかった。7月、球団の人から『根本さんが引退しないかと言ってるけど、どうする?』と伝えられた。向こうも忙しいし、簡単に考えるからね(笑)。自分としては、あと数年できると思っていた。でも、伊東(勤)だけでなく、肩の強い仲田(秀司)というキャッチャーも出てきた。若い子のために、退かないといかんでしょ」
阪神フロント入り…監督は星野仙一に
引退後、西武やダイエーでコーチを務めた黒田は、99年から野村克也監督のもとでバッテリーコーチとして阪神を支え、00年オフに球団本部付部長としてフロントに入った。

