ぶら野球BACK NUMBER
「残念だけど、お前は戦力に入ってない」実家で父親・長嶋茂雄が告げた戦力外通告…“2世”長嶋一茂が現役引退した日「父子、巨人での4年間」
text by

中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2025/06/22 11:06
1993年、巨人にトレード移籍した長嶋一茂。写真は同年オープン戦で、長嶋茂雄監督と一茂
「先が見えた『長島一茂クン』の選手生命」(週刊新潮1990年3月29日号)。「十カ月ぶりの1号ホーマーも虚し 長島一茂に早くも引退説」(週刊文春1990年8月2日号)とプロ3年目の若手選手に対して、辛辣すぎる報道が続く。
崖っぷちの1991年2月には、西都キャンプに伊勢孝夫打撃コーチの発案で、父・茂雄がキャンプ地まで来て直接打撃指導をした。6月には2本のホームランを放ち、一時三塁レギュラーを獲得したかに思われたが、活躍も長続きせず。「アイツは何も考えとらん」と背番号3を突き放す、野村監督との不仲を面白おかしく書き立てられ、監督のご機嫌をうかがうコーチ陣との関係性も悪化。そして、一茂はプロ5年目の1992年に尊敬する落合博満の自主トレ先を訪ね弟子入りするも、開幕前には逃げるようにアメリカ留学へ向かうのだ。
当初は留学に反対した父・茂雄だったが、自らフロリダへ飛び、ドジャース傘下の1Aチームでプレーする一茂のもとを訪ねる。日本では常に周囲の目を気にしたが、アメリカではその必要はなかった。球場で試合を観戦したあと食事を楽しみ、下宿先のリビングでは、バット片手に夜遅くまで父は息子に打撃指導したという。
「お前はもう戦力に入ってない」
ADVERTISEMENT
そして、親子の野球人生はついに交差する。一茂が帰国した直後、1992年10月に茂雄の12年ぶりの巨人監督復帰が決まるのだ。金銭トレードで父親が指揮を執る巨人へ移籍した27歳の一茂は、ルーキーの松井秀喜とともに再びマスコミに追われる日々に戻る。1993年のオープン戦で2打席連続アーチを含む打率.375と懸命にアピールを続け、ついに「6番・左翼」で開幕スタメンを勝ち取った。4月23日には阪神戦で移籍第1号を左翼席へ。セ・リーグ3万号の記念アーチは翌朝のスポーツ各紙の一面を飾り、興奮で眠れなかった一茂は、宿舎近くのキヨスクで記念に新聞をすべて買い込んだという。
しかし、アマチュア時代の古傷でもある右肘に加えて右膝も痛め、1993年シーズンも終わってみれば打率.216、1本塁打、12打点。9月には渡米してフランク・ジョーブ博士の執刀で手術を受ける。そこからは負傷箇所を騙しながらのプロ生活となる。主な仕事は三塁守備固め兼右の代打。FA制度と逆指名ドラフトで大型補強時代へと突入した巨人では、レギュラーの座は遠かった。ヤクルト時代と同じく、その素質と人気を見込んでロッテや西武からのトレード打診が報じられたが、父が息子を放出することはなかった。



