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長嶋茂雄“父の顔”「一茂をよろしく」ヤクルトスカウトと父・茂雄が話した日…長嶋一茂ドラ1指名のウラ側、一茂“当時の本音”「父の質問はウンザリだ」
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中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2025/06/22 11:05
1987年、ドラフト1位で立教大からヤクルトに入団した長嶋一茂。入団会見で関根潤三監督と
長嶋茂雄の再来を託され、“プラチナボーイ”と称されたドラフト1位ルーキー長嶋一茂への注目度は凄まじく、1987年11月26日の入団発表にはヤクルト本社6階大会議室に150人もの報道陣が集結。1988年春のユマ・キャンプの様子は、テレビ朝日の人気番組『ニュースステーション』で、密着企画が連日放送されるほどだった。
オープン戦でも、「三塁・長嶋」のアナウンスだけで相手応援席から拍手が送られる長嶋フィーバーが続き、開幕一軍入り。4月27日の巨人戦でビル・ガリクソンの143キロのストレートをたたき、プロ初安打初本塁打をバックスクリーンに放り込んだ。メジャー100勝右腕からの一撃に、まるで優勝したかのような大歓声に包まれる神宮球場。巨人が勝利したにもかかわらず、試合後のヒーローインタビューには一茂が呼ばれるほどだった。そのあまりの人気ぶりに球団も動く。新人はマイカー禁止だったが、一茂が電車に乗ったら騒ぎになるからと新車のソアラの購入を容認。さらに特例で5月の連休中には田園調布からの自宅通勤が許可された。新人は少なくとも1年間は戸田寮から球場へ通うことがルールだったが、相馬和夫球団社長は「長嶋クンは例外。家に帰れば日本一の打撃コーチがいるんだから」と父・茂雄の指導に期待した。
一茂はプロ1年目に88試合で4本塁打を放ち、2年目の1989年シーズンは打率.250、4本塁打、15打点という成績を残した。大卒内野手としては上々のスタートとも言えるだろう。

