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長嶋茂雄“父の顔”「一茂をよろしく」ヤクルトスカウトと父・茂雄が話した日…長嶋一茂ドラ1指名のウラ側、一茂“当時の本音”「父の質問はウンザリだ」 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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posted2025/06/22 11:05

長嶋茂雄“父の顔”「一茂をよろしく」ヤクルトスカウトと父・茂雄が話した日…長嶋一茂ドラ1指名のウラ側、一茂“当時の本音”「父の質問はウンザリだ」<Number Web> photograph by KYODO

1987年、ドラフト1位で立教大からヤクルトに入団した長嶋一茂。入団会見で関根潤三監督と

「(落合に)いちばん魅力を感ずるというか、いいなと思うのは、やっぱり実績を出しているということ。それがまず第一。それがあるから、いろいろ言えるんだし、いろいろ言って、それで自分に緊迫感を高めて打っているという感じがする。普通の選手が言ったら、相手のピッチャーだって『なんだ、この野郎』と思って投げてくるんでしょうけど、それをはね返すだけの実力があるから。まあいろいろあります。僕、本当によく読みますから、落合さんのは。落合さんが活字に出ていると、ほとんど買って読みますね」(Number183号)

 ちなみに、その落合が野球を始めた少年時代から憧れたのは、長嶋茂雄だった。父が繋ぐ、オレ流との数奇な縁。プロ入り後、一茂は落合の自主トレ先を訪ね、弟子入りを志願している。

「一茂をよろしく」ヤクルトスカウトと父・茂雄が話したこと

 1987年のドラフト会議の主役は、もちろん立教大4年の一茂である。ヤクルトスカウトの片岡宏雄は、その年の夏に軽井沢のホテルでばったり父・茂雄と出くわして、ロビーの喫茶店で話したという。立教大野球部で片岡は、茂雄の1学年下の後輩で気心の知れた仲だった。だが、目の前の先輩は息子・一茂の去就に一切触れず、大豊泰昭(名古屋商科大)の話題に終始する。

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「答えを聞くと、すぐに次の質問をぶつけてくる。息つく暇もないほどだ。間違いなく長嶋さんは一茂に話が及ぶことを避けていた。一度だけ『いや、今年は右の一茂、左の大豊でしょ?』と水を向けてみたが、一切乗ってこない。あえてその話題を口にしない長嶋さんに、逆に『一茂をよろしく』というメッセージを託されたように感じた」(プロ野球スカウトの眼はすべて「節穴」である/片岡宏雄/双葉新書)

 それは、国民的スーパースターではなく、子を持つひとりの父親の顔だった。結局、王貞治率いる巨人も直前まで1位指名を検討したが回避。ヤクルトと大洋が1巡目で競合すると、ヤクルトが交渉権を獲得した。監督の関根潤三は、第1次長嶋政権で巨人のヘッドコーチを務め、大洋監督時代には自ら「私は長嶋君が大洋の監督になるまでの繋ぎ」と公言するほどの長嶋派として知られていた。

 こうして、日本が未曾有の好景気で沸いていた1988年。プロ野球界を席巻する、長嶋ジュニアフィーバーが幕を開けるのである。

「長嶋クンは例外」新人なのに“マイカーOK”

「まあ、こういう質問(父・茂雄について)は百万回くらいされてるから、その関係の質問が出ると『ウンザリだな』って条件反射的に心が閉じちゃうって気持ちもある。しゃべりたくないってね。友だちとかには『監督の息子だ』とか面と向かって言われたことないんだよ。ただ、小学校の何年かな、陰で言われてさ、なぐってやろうかと思ったけど……(笑)」(小学六年生1993年7月号)

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