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「不用意に左手を突っ込むな!」星野仙一が激怒のワケは? 中日レジェンド・山本昌が語る“恩師の素顔”…鉄拳も「全然、嫌だと思いませんでした」 

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酒井俊作

酒井俊作Shunsaku Sakai

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photograph byJIJI PRESS

posted2025/06/20 11:03

「不用意に左手を突っ込むな!」星野仙一が激怒のワケは? 中日レジェンド・山本昌が語る“恩師の素顔”…鉄拳も「全然、嫌だと思いませんでした」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

プロ初勝利を挙げた1988年から山本昌が恩師として仰ぐ故・星野仙一氏。鉄拳も辞さない闘将だったが、そこには深い愛情を感じたという

 いまから3年かかるカーブを覚えてどうするんだ――。だが、目の前の生原は連日、ブルペンでワンバウンドするカーブを捕りつづける。マスクをつけるだけでレガースもプロテクターもつけない。やがて、その体はアザだらけになっていった。それでも、こんな声が飛んでくるのだ。

「体に当ててもいいから来い!」

 連日100球のカーブを投げた意味を、山本昌が知ることになるのは数年後である。

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「モノになったのは93年で、最多勝と防御率のタイトルを取れたシーズンでした。僕は直接、ふたりに(アメリカでの練習の意図を)聞いたことはありませんが、星野さんとアイクさんの間で、いろいろ話をしていたのだと思います」

 ともに鬼籍に入ったいま、確かめようがないが、きっと星野が生原にカーブ習得の課題を伝えたのだろう。生原が他界した翌93年に17勝を挙げると、94年には自己最多の19勝。沢村賞にも輝いた。

200勝達成…真っ先に伝えたのは?

 山本昌は太く長く先発陣の柱として活躍した。そして、43歳になる直前の08年の8月4日、ナゴヤドームで行われた巨人戦で完投し、200勝を達成した。その夜、真っ先に電話で伝えたのが星野だった。

「プロ野球選手として一人前にしてくれたのは、星野さんとアイクさんですから」

 鬼のなかに仏が棲む。

 山本昌は星野の本質をわかっていた。

 その野球人生の節目にはいつも人がいた。歴代の監督を見渡しても独り立ちするまでは厳格な星野のもとでプレーし、絶頂期を迎えると自主性を重んじてくれた高木守道、ベテランでも特別扱いしない山田久志が、その野球人生を後押ししてくれた。

 そして、独特の感性の持ち主だった落合博満こそが、山本昌が50歳まで現役をまっとうするためのキーマンだった。

<次回へつづく>

#5に続く
落合博満に「ここまで来たら50歳までやれ」と…「100万回やり直してもない」“奇跡の野球人生” レジェンド・山本昌が語る「令和のドラゴンズ」
この連載の一覧を見る(#1〜5)

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