革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「鈴木啓示監督を嫌いとかではなかった」吉井理人が“ボール蹴飛ばし事件”で近鉄から電撃トレードされた深層「あれで、気持ちが切れました」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byTakahiro Kohara
posted2025/06/13 11:07
88年からクローザーを務めた吉井理人。94年には先発として7勝を挙げたが……
強気な投球が身上。時に感情を露わにして投げる人だったから、私の印象も「こういうのも、吉井さんらしいな」。ちょっとエキサイトし過ぎたんだろうな、と思った程度だった。
ところが、この“シュート事件”を殊更に問題視したのが、鈴木をはじめとした首脳陣と球団の方だった。
即刻2軍落ち、そして移籍
「相手球団、ファンの前で許されない行為」
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球団本部長の足高圭亮は、そのマナーを欠いた行動に対し、吉井に直接、厳重注意を下している。さらに翌26日、吉井はロッテ戦が組まれていた千葉から即刻帰阪を命じられた。
「みんなが出発してから、こっそり帰れ」と球団側から通達されたというのだが、そこでもまた、吉井らしい大胆行動に打って出る。
「逆にバス、見送ってやったんです。手を振ってね」
球場へ出発するチームメートに「俺、2軍や」と告げ、見送ってから帰阪したという。
「もう、あれであのシーズンは気持ちが切れました。そんなんしたから、トレードに出されたんやと思います」
吉井は“キック降板”から帰阪した翌27日、出場選手登録を抹消されると、その後、1軍へ戻って来ることはなかった。そして翌95年の開幕直前となる3月20日、西村龍次との交換トレードでヤクルトへ移籍することになる。
吉井の直情径行の過去
今の時代で言うところの「アンガー・マネジメント」にかかわるところで、吉井の直情径行な行動が物議を醸したのは、実はこの時のことだけではなかった。
監督・仰木彬のもと、近鉄がパ・リーグ優勝した1989年、その胴上げ投手は阿波野秀幸だった。吉井はその前年の88年、10勝24セーブで最優秀救援投手賞。89年にも5勝20セーブと、猛牛の守護神としての地位を確立していた存在でもあった。
最後に、試合を締めくくる。その重圧に耐え、チームを優勝に導いた。その功労と、当然ながら、優勝への“最後の1勝”も、いつも通りに締めくくるという意味合いから、胴上げ投手は「ストッパー」が務めるというのも、これまた球界の不文律でもある。
ところが、これで優勝という、まさしく晴れのマウンドに仰木が送り出したのは、吉井ではなく、阿波野だった。
〈つづく〉

