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元監督が振り返る「PL学園vs.大阪桐蔭」20年前“超名門対決”の記憶…延長15回→再試合で現れた1年生投手の衝撃「100%桐蔭が勝つと言われたけど…」 

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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photograph by(L)Sankei Shimbun、(R)Nanae Suzuki

posted2025/06/03 11:02

元監督が振り返る「PL学園vs.大阪桐蔭」20年前“超名門対決”の記憶…延長15回→再試合で現れた1年生投手の衝撃「100%桐蔭が勝つと言われたけど…」<Number Web> photograph by (L)Sankei Shimbun、(R)Nanae Suzuki

2000年代初頭に甲子園を賭けて争うことが多かったPL学園と大阪桐蔭。中でも2004年の府大会では延長15回→再試合という熱戦だった

 だが、蓋を開けると序盤から小刻みに加点したPL学園が何とか逃げ切り、13対7で勝利し、2年連続の夏の甲子園切符を掴んだ。前田は難敵を相手に7失点しながらも完投。大阪桐蔭有利の前評判を覆し、当時の“新鋭校”を“伝統校”が押し切った格好となった。

後も続く大阪桐蔭との「ライバル関係」

 大阪桐蔭の西谷監督は当時のPL学園について「何度も何度も挑戦したけれど跳ね返され続けてきた厚い壁だった」と以前話していたことがある。それからPL学園と大阪桐蔭は覇権を争うライバル同士となっていった。

 実は藤原は西谷監督とはほぼ同じ時期に監督になり、縁深い間柄でもあった。ただ、当時は球場で言葉を交わすことは少なかったという。

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「自分は不祥事後に監督になって、何とかPLを復活させようと必死で。“PLは終わったな”と言われるのが当時は一番嫌でした。だからチームのことを考えるのが精いっぱいで、試合で西谷先生と顔を合わせても話す余裕がなかったんです。それは西谷先生に限らず、他校の監督さんともです。挨拶はしても話すことはほとんどなかったですね。あの頃の自分は、もう前を見るだけでいっぱいいっぱいで」

 かつてのPLを取り戻したい。その一心で“負けないPL”の姿を試合で体現し続けた。

 以降、07年秋、08年春、秋、09年春、夏と立て続けに大阪桐蔭と対戦するも、そのほぼすべてで勝利。甲子園で70勝を挙げる名将となった西谷監督も、大阪を勝ち抜くことに苦労した時期があった。それが常勝軍団となるチームの基盤となり、全力プレーを徹底する源となっている。

 PLの監督となって丸4年となった藤原は06年春のセンバツでエース前田健太を擁し、ベスト4へ進出した。だが、藤原が指導者としてPLを甲子園に率いた大会はこれが最後となった。08年夏に部内で再び暴力事件が明るみになり、藤原は監督を引責辞任することに。翌年、副部長という立場で野球部には残ったが、担任をしていた生徒が卒業したタイミングで母校を離れ、12年春に佐久長聖の監督に就任した。

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