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甲子園の風BACK NUMBER
「自分が監督でいいの?」27歳で“超名門”PL学園の監督に…“ベンチ入りギリギリ”だった男が母校の指導者になったワケ「最初は全然、ピンと来なくて」
posted2025/06/03 11:01

2001年に27歳の若さでPL学園の監督に就任した藤原弘介氏。その後は春夏合わせて3度の甲子園に出場したが、その異例の抜擢のウラにはなにがあったのか
text by

沢井史Fumi Sawai
photograph by
Sankei Shimbun
気がつけば、監督生活は人生の半分近くになっていた。
母校のPL学園でコーチとして約4年、監督として6年半、さらに佐久長聖で13年。指導者として高校野球の第一線を歩んできた藤原弘介氏は、この春、佐久長聖の監督を退任し、家族が待つ地元の大阪に戻った。
PL学園ではコーチ時代に春夏計4度、監督としては春夏計3度、佐久長聖では就任1年目の夏に学校として10年ぶりの甲子園に出場を決めるなど計5度、夏の大舞台に立った。
高校野球界「かつての名門」はいま
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かつて高校野球界の“盟主”として一時代を築いたPL学園。
春は3度、夏は4度の優勝を数え甲子園では数多くの伝説を残した名門も、16年夏を最後に野球部が休部し、17年の大阪府高野連を脱退。学校経営に関しても様々な噂が流れ、教団の方針とはいえ、野球部再建に関して明るいニュースがなかなか聞こえてこないのが現状だ。
それでも藤原の心に染みついているのは“PL魂”だ。あの頃の思い、そして勝負への執念。すべてはPLで過ごしたひとつひとつの経験が起点になっている。
「自分としてはここまで(高校野球の)指導者をやって来られるとは思いませんでした。PLは今こんな状況ではありますけど……僕はPLでやってきて良かったって、今でも思っています」
藤原氏はPL学園のある富田林市の南に位置する大阪府河内長野市出身。ソフトボールから白球に触れるようになり、中学生になると河内長野ボーイズでプレーした。
藤原が野球少年だった時代はPL学園が甲子園で驚異的な強さを見せつけており、幼い頃からPL学園は憧れだった。その後、89年に元木大介(元巨人)を擁してセンバツは準優勝、夏の甲子園でも8強まで勝ち進んだ上宮や、同じくセンバツ8強に進出した近大付など、大阪の覇権争いが戦国時代に突入した頃でもあった。
地元という土地柄だけでなく、色んな縁が結びつき、藤原はPL学園の門を叩くことになった。入学に至った経緯については「ちょっと甘い考えだったと思うんですけど」と前置きし、苦笑いを浮かべながらこう明かす。