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元監督が振り返る「PL学園vs.大阪桐蔭」20年前“超名門対決”の記憶…延長15回→再試合で現れた1年生投手の衝撃「100%桐蔭が勝つと言われたけど…」

posted2025/06/03 11:02

 
元監督が振り返る「PL学園vs.大阪桐蔭」20年前“超名門対決”の記憶…延長15回→再試合で現れた1年生投手の衝撃「100%桐蔭が勝つと言われたけど…」<Number Web> photograph by (L)Sankei Shimbun、(R)Nanae Suzuki

2000年代初頭に甲子園を賭けて争うことが多かったPL学園と大阪桐蔭。中でも2004年の府大会では延長15回→再試合という熱戦だった

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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(L)Sankei Shimbun、(R)Nanae Suzuki

 甲子園に8度チームを導いた名伯楽がこの春、ユニホームを脱いだ。名門・PL学園出身の藤原弘介氏だ。不祥事に揺れる母校や、縁もゆかりもない新天地での高校での指導など、様々な環境で結果を出してきた同氏。その背景には一体何があったのだろうか。《NumberWebインタビュー全2回の2回目/最初から読む》

 2001年に部内の暴力事件が発覚し、夏の大会を出場辞退したPL学園。

 衝撃のニュースの結果、従来の首脳陣は一掃されることになった。そこで次の監督として白羽の矢が立ったのが、当時コーチを務めていた藤原弘介だった。

 PL学園OBでもある藤原は、もちろん「母校を何とかしなければ」という思いも強かったが、当時はまだ27歳。お世話になった指導陣が離れていく中、「自分が監督になって良いのか」という葛藤もあった。

27歳で監督就任…翌年夏の甲子園に出場

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 そんな中、福留孝介選手(元中日など)と同級生で正右翼手だった諸麦健二氏がコーチとして藤原のサポートを行うことに。2002年2月に監督に就任し、直後の春の府大会でいきなり優勝。翌年には夏の甲子園にも出場した。その翌年の04年にはのちに大リーガーとなる前田健太(広島→ドジャースなど)が入学し、野球部は徐々に活気づいていった。

「最初は“こんなにもうまくいくものなのか”と思いましたけど、あの頃はとにかく再建するために必死でした。試行錯誤することもありましたけれど、コーチ時代にやってきたことをどう指導に生かすか。それだけを考えていました」

 もう、自分の前に立ち手を差し伸べてくれる指導陣はいない。

 それでも若いコーチと二人三脚でやり繰りする指導で、チームは少しずつ上昇気流に乗り始めていた。

 PL学園が不祥事で揺れていた頃、大阪府大会での上位進出が増え始めた学校があった。のちに平成から令和にかけて甲子園で“常勝軍団”として君臨することになる大阪桐蔭だった。

 大阪桐蔭は、91年の全国制覇以降、02年の夏に11年ぶりに聖地に戻り、西岡剛(元ロッテなど)などの有能な選手も輩出。創部当時からチームを率いていた長澤和雄氏の後任として、西谷浩一監督が就任していた。

 藤原が監督となったPL学園と大阪桐蔭は、上位進出するたびに対戦する機会が増えていった。02年春の決勝も、相手は大阪桐蔭だった。

【次ページ】 2004年の夏…大阪桐蔭と延長15回の死闘

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