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「自分が監督でいいの?」27歳で“超名門”PL学園の監督に…“ベンチ入りギリギリ”だった男が母校の指導者になったワケ「最初は全然、ピンと来なくて」 

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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photograph bySankei Shimbun

posted2025/06/03 11:01

「自分が監督でいいの?」27歳で“超名門”PL学園の監督に…“ベンチ入りギリギリ”だった男が母校の指導者になったワケ「最初は全然、ピンと来なくて」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

2001年に27歳の若さでPL学園の監督に就任した藤原弘介氏。その後は春夏合わせて3度の甲子園に出場したが、その異例の抜擢のウラにはなにがあったのか

 その後、社会人野球チームに一旦断りの連絡を入れた。だが、その後就職先を探すも自分の望むチームには進むことが出来ず、現役続行を断念。一般企業に就職することになった。就職先は電機部品メーカーの営業職だった。

 だが、入社して8か月後の1997年12月、翌年から就任が決まっていたPL学園の河野有道監督から連絡があった。

母校からまさかの「コーチ打診」

「(指導スタッフとして)来てくれないか、という電話でした。自分は教員免許を持っているので、寮にも入って(寮監をして)もらいたいという話でした」

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 当時、現在の妻と付き合っていて近々結婚する予定もあり、すぐに決断していいものか思い悩んだ。さらに藤原自身、実は当時は指導者という言葉にあまりピンと来ておらず、コーチは何をするのか、母校のために何ができるのか考え込んだこともあった。

 それでも熟考の末、会社を辞めることを決意。母校に戻った98年の1年間は学校職員採用で寮監も兼ねて後輩の指導にあたることになった。

 その年はチームがちょうどセンバツ出場を決めていた。エース上重聡(現フリーアナウンサー)、主将に平石洋介(元楽天監督)らが主となっていたチームだ。この年は松坂大輔(横浜→西武など)という“平成の怪物”と呼ばれた大エースがおり、夏の甲子園ではPL学園と延長17回の大熱戦を演じた歴史的な年でもある。そんな歴史的な世代にいきなり居合わせたことも、藤原の指導者としての運命めいたものを感じていた。

「母校に帰らせてもらったらいきなり甲子園に行かせてもらって。タイミングが良かったというか、ありがたいというか……。あの年はグラウンドではノックよりバッティングピッチャーをよくやっていました。コーチになったばかりでしたけれど、”本当に甲子園に出ているのか“という錯覚みたいなものがありました」

 だが、PL学園として最大の危機が01年に訪れる。

 部内で暴力事件が発生し、夏の大会を出場辞退するという衝撃的なニュースが高校野球界を駆け巡った。当時、プロも注目する有望な選手が多く在籍していたチーム。甲子園に出場すれば優勝候補に挙げられてもおかしくなかったが、半年の対外試合禁止の処分が下された。

 野球部の指導者陣が一掃される中、野球部監督を打診されたのが、まだ27歳になったばかりの藤原だった。

<次回へつづく>

#2に続く
元監督が振り返る「PL学園vs.大阪桐蔭」20年前“超名門対決”の記憶…延長15回→再試合で現れた1年生投手の衝撃「100%桐蔭が勝つと言われたけど…」

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