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甲子園の風BACK NUMBER
「自分が監督でいいの?」27歳で“超名門”PL学園の監督に…“ベンチ入りギリギリ”だった男が母校の指導者になったワケ「最初は全然、ピンと来なくて」
text by

沢井史Fumi Sawai
photograph bySankei Shimbun
posted2025/06/03 11:01
2001年に27歳の若さでPL学園の監督に就任した藤原弘介氏。その後は春夏合わせて3度の甲子園に出場したが、その異例の抜擢のウラにはなにがあったのか
「自分が小学校の時は清原(和博・元西武など)さんや桑田(真澄・元巨人)さんが甲子園で活躍されて、中学1年生の時に立浪(和義・元中日監督)さんらで春夏連覇して、その間に上宮や近大付が甲子園に出て、PLが少しだけ甲子園に出られなかった年があったじゃないですか。その時期、僕はちょうど中学3年くらいで(進路を決める時期だった)。だから少しでも試合に出られる可能性はあるのかなと思って……」
だが、入学してそれは浅はかな考えだったことを痛感することになる。
「入学して1年上に坪井さん(智哉・元阪神など)や2年上に入来(祐作・元巨人)さんがいて、予想以上にレベルが高かったです。1年下には松井(稼頭央・元西武)もいましたしね」
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厳しい寮生活も覚悟して入学したつもりだった。
PL学園では1年生が3年生の回りの世話する付き人制度が敷かれていた。今まで自分でやったことがなかった洗濯は、自分の分だけでなく先輩の分もこなすことが日課だった。「ユニホームの素材が今のようにメッシュ素材ではなくてあの頃は分厚い素材だったので、なかなか乾きにくくて。何気にそこも大変でした」
慣れない環境に厳しい練習の毎日。でも、とにかく必死だった。さらに藤原は厳しい寮生活以上に先輩たちのハイレベルなプレーに練習のたびに目を奪われ、何とも言えない不安にも苛まれていた。
「寮生活は確かにしんどかったです。でも外野のノックで先輩の矢のような送球を見ていたら、こんなレベルのところでやっていけるのかなと。毎日そればかり考えていましたね」
高校時代の悩みは…「太れない」
当時は携帯電話などなく、主な連絡手段は手紙だった。寮のそばに公衆電話はあったが、3年生が優先的に使うため、1年生が公衆電話を使えるわけがなかった。授業の合間に手紙をしたため、職員室に呼ばれた時に近くにある事務室からこっそりと家族や友達に手紙を出すことが、当時の心の支えだった。
何より当時の藤原の悩みはなかなか太れないことだった。1年生は練習後も先輩周りの整理整頓をはじめ、炊事や風呂当番、道具磨きなどに明け暮れ、寮でゆっくり食事をとる時間を確保するのは難しかったのだ。
「あの頃は本当にガリガリでした。入学して体重が一気に落ちても今ならトレーニングや食事で戻るじゃないですか。でも僕は60キロ以上あった体重が一気に54キロまで落ちて、3年生になってやっと60キロに戻りましたが、なかなか体重が増えなかったですね」

