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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「ゴッチさんがカンカンに怒って…」新間寿は“無名レスラーばかり”だった新日本プロレスをどう変えたのか? 新間のゲキに、藤波辰爾が奮起した日
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/05/20 11:00
マット界に大きな功績を残し、2025年4月21日に亡くなった新間寿さん
「僕のWWFジュニア王座挑戦というのは、新日本にとっても、放送するテレビ朝日にとっても一つの賭けだったんだろうね。これだけのお膳立てをして、ニューヨークまで中継スタッフを飛ばしても、僕がダメな試合をやったら台なしになるわけだから。それで試合前、新間さんがすごい顔して言ってきたんだよ。『おい、日本でテレビ放送するんだから、何かインパクトある技をやれよ!』って。こっちは緊張して、それどころじゃなかったのにさ(苦笑)」
新間にハッパをかけられ、大舞台で藤波が初披露したのが、相手を羽交い締めにしたまま後方に投げるカール・ゴッチ直伝の新技ドラゴンスープレックス。当時は通常のジャーマンスープレックスも、使い手は猪木をはじめ数える程だった時代。その進化系である強烈な新技のインパクトは抜群だった。
さらに藤波のジュニアヘビー級時代もう一つの代名詞であるドラゴンロケットが生まれたのも新間の檄によるものだった。
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「日本に帰国して第1戦の試合前、また新間さんが来て、『みんな注目してるんだから、なんかやれよ』って言うんだよね(苦笑)。それで仕方がないから、メキシコ修行時代に現地のレスラーが使っていた技、トペ・スイシーダを見よう見まねで、一か八かでやってみたんだ。それがドラゴンロケットの始まり。練習なんてしたことなかったし、メキシコで見た時は『よくこんな危険な技を使うな』と思ってたんだけど、当時の俺は軽くて動きも速かったので、ウルトラマンみたいに飛んで、うまくいったんだよね」
遺影に語りかけた藤波の言葉
こうして新間の“仕掛け”によって無名の若手レスラーから大スターとなり、その後、日本を代表するトップレスラーに成長した藤波辰爾。今年4月30日に行われた新間寿の葬儀・告別式では藤波が弔辞を読み、「あなたのアイデアと熱意によって藤波辰爾はつくり上げられ、私の人生を色鮮やかにしてくれました。私のプロレス人生の輝きの多くは、新間さん、あなたに与えられました。藤波辰爾は新間さん、あなたの作品です」と、遺影に語りかけた。この感謝の意は、藤波の偽らざる心からの言葉だっただろう。
そしてこの藤波辰巳売り出し成功の3年後、新間は新日本プロレスの“最高傑作”を世に送り出す。1981年4月23日、蔵前国技館でデビューした、初代タイガーマスクだ。《後編に続く》

