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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「ゴッチさんがカンカンに怒って…」新間寿は“無名レスラーばかり”だった新日本プロレスをどう変えたのか? 新間のゲキに、藤波辰爾が奮起した日
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/05/20 11:00
マット界に大きな功績を残し、2025年4月21日に亡くなった新間寿さん
24歳の藤波、王座戴冠の舞台裏
そして新間が仕掛けたMSG出場での“箔付け”で最も成功したのが、藤波辰巳(現・辰爾)によるWWFジュニアヘビー級王座奪取だ。
78年1月20日、WWFは復活ジュニアヘビー級王座の新王者決定戦を行い、その3日後、MSGで王者カルロス・ホセ・エストラーダが藤波辰巳を迎えうつタイトル初防衛戦を開催。この試合で藤波は、それまでの欧州、メキシコでの修行、さらカール・ゴッチのもとでの集中特訓の成果をいかんなく発揮し、初公開の大技ドラゴンスープレックスで見事に勝利。WWFジュニアヘビー級チャンピオンとなり人気爆発、日本に“ドラゴンブーム”を巻き起こしたのだ。
現在の大谷翔平人気の例を出すまでもなく、いまも昔も日本人スポーツ選手の海外での活躍というのは、国民の大きなよろこびのひとつだ。ただ、プロ野球の世界で日本人メジャーリーガーの活躍など考えられなかった70年代当時、日本のスポーツ選手が海外で大きな成果を上げることは、オリンピックなどかぎられた機会しかなかった。
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そんな時代にMSGという世界の檜舞台で、24歳の無名の日本人がチャンピオンになる姿は、まさにアメリカンドリームだった。この藤波王座戴冠の舞台裏を新間はこう語っている。
「78年というのは、新日プロとWWFの関係がさらに親密となった年。そのときビンス・マクマホン・シニアに『新日プロ向けに、新しいWWFのタイトルを作ってもらえないか?』と相談したんだ。そしたら『いま、ジュニアヘビー級のタイトルが長年空位で眠った状態になっているから、そのベルトはどうだ?』と言われた。当時、日本でジュニアヘビー級はあまりなじみはなかったけど、軽い階級なら若手の藤波にピッタリだなと思ってね。それで『ぜひ頼む』とお願いして、藤波のタイトル挑戦が決定したんだ」
新日本、テレビ朝日にとっても“賭け”だった
日本で無名だった若者にこれだけの大きなチャンスが与えられるのも、ジュニアヘビー級がこれだけクローズアップされるのも初めてのことだったが、この藤波抜擢には76年の猪木vsモハメド・アリ戦が、じつは大きく影響していた。当時、アリ戦で莫大な借金を抱えていた新日本は、猪木に続く新たなスターを必要としており、そこで海外修行中の藤波に白羽の矢が立てられたのだ。当の藤波は、こう証言する。
