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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「ゴッチさんがカンカンに怒って…」新間寿は“無名レスラーばかり”だった新日本プロレスをどう変えたのか? 新間のゲキに、藤波辰爾が奮起した日
posted2025/05/20 11:00

マット界に大きな功績を残し、2025年4月21日に亡くなった新間寿さん
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
元・新日本プロレス営業本部長で、アントニオ猪木の全盛期に数々のビッグマッチを実現させるべく奔走し、“過激な仕掛け人”と呼ばれた新間寿が4月21日に90歳で亡くなった。
自身も新間にスカウトされて新日本プロレス入りした前田日明が通夜に訪れた際、「新間さんがいなかったら新日本の隆盛はなかったです」と語ったように、70年代から80年代前半にかけてのプロレス人気は、猪木と二人三脚で歩んだ新間の働きを抜きにしては語れない。その功績をあらためて振り返ってみよう。《NumberWebドキュメント全2回の初回》
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新間寿の功績として真っ先に語られるのは、プロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリ戦をはじめとしたアントニオ猪木一連の異種格闘技戦や、猪木vsストロング小林の大物日本人対決を実現させたことだろう。しかし、ある意味でそれらのビッグマッチ以上に新日本プロレスに恩恵を与えたこととして、1974年から80年代前半まで続いたWWF(現在のWWE)との強固な協力関係の確立が挙げられる。黎明期の新日本プロレスにとって最大の懸案は、なかなか大物が外国人レスラーを呼べないことだったからだ。
猪木が日本プロレスを追放され新日本を旗揚げした際、当時の日本におけるプロレス団体運営の生命線ともいえる外国人レスラーの招聘ルートは、既存の日本プロレスと国際プロレスに完全に握られており、テレビ局のバックアップもない、苦しい船出だった。生前インタビューした際、新間は当時の苦労をこう語っている。
「観客数が増えないから、ゴッチさんに手紙を書いた」
「新日プロの旗揚げ当初は、本当に大変でしたよ。とにかく、お金もないし、テレビ(レギュラー放映)もないという、ないないづくし。あるのはレスラーと社員のやる気だけだったね。とくに困ったのがガイジンレスラーの招聘ですよ。当初、猪木さんの師匠格であるカール・ゴッチさんがブッカー(外国人招聘担当)をやってくれたんだけど、呼んでくるのはブルックリン・キッドだのインカ・ペルアーノだの聞いたこともないような無名レスラーばかりでね(苦笑)。
これでは観客数も一向に増えないから、あるときゴッチさんに手紙を書いたんですよ。『我々が呼んでほしいのは、ディック・ザ・ブルーザーであり、ブルーノ・サンマルチノだ』って、当時の一流レスラーの名前を何人か記してね。そしたら、ゴッチさんがカンカンに怒って猪木さんのところに電話してきて、『おまえら、そんな選手を呼べるほどの団体か?』と言われたらしいよ(笑)。確かに、あの時代にアメリカのプロモーターに信頼されていた日本人は、日プロや国際プロレスでブッカーをやっていたグレート東郷さんと全日本のジャイアント馬場さんしかいなかったんだよ。『イノキ? Who?』ってなもんだった」