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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「ゴッチさんがカンカンに怒って…」新間寿は“無名レスラーばかり”だった新日本プロレスをどう変えたのか? 新間のゲキに、藤波辰爾が奮起した日
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/05/20 11:00

マット界に大きな功績を残し、2025年4月21日に亡くなった新間寿さん
そんな理由から全米の一流レスラーを呼べない新日本は、当初、東部の独立団体NWFを主宰するジョニー・パワーズや、無名だったタイガー・ジェット・シンを“一流”に仕立て上げることで外国人レスラー不足を補っていた。そんな新日本が1974年初頭、WWFとの協力関係を結ぶことに成功する。ここから新日本の躍進は一気に加速したが、この話を取りまとめたのが新間寿だった。
「新日本のブッカーは、73年6月からロサンゼンルス地区のプロモーター、マイク・ラベールに変わっていたんだけど、私がロスに行ったとき、たまたまビンス・マクマホン・シニア(当時のWWF代表で、WWE前会長ビンス・マクマホンの父)が来ていてね。そこで紹介されたとき、ダメ元で『うちに選手を送ってくれないか?』と言ってみたら、快くOKしてくれたんだ。そこから新日プロとWWFの関係は始まったんですよ」
アンドレ・ザ・ジャイアントの招聘に成功した理由
そしてWWFと協力関係を結んだ新日本は、74年2月、“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの招聘に成功。当時、すでに世界一の売れっ子レスラーだったアンドレを、日本の中規模団体にすぎなかった新日本が呼べたのはまさに奇跡的なことだった。
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「私とビンスはウマが合ったというのかな。また私も大プロモーターであるビンスを尊敬もしていたから、そんな態度から信頼を得られてね。アンドレも快く送ってくれたんだ。また、当時のWWFは今のような全米規模ではなくアメリカ東部だけで興行を行う団体だったから、いかにアンドレとはいえ、毎回出場させたらお客に飽きられてしまう。だから定期的に他の地域の団体に貸し出して、逆に人気レスラーを送ってもらうなど、プロモーター間の交流が活発だったんだよ。それもあって『じゃあ、日本ではニュージャパンにアンドレを送るよ』と言ってくれたんだ」
こうしてWWFからレスラーを送ってもらえるようになった新日本は、見返りとして、74年3月の猪木戦を機に国際プロレスから新日本に移籍した(※当時、表面上は『東スポ』預かりのフリー)ストロング小林をWWFに送り込む。アメリカのプロレスは地域によって好むスタイルが違う。ニューヨーク地区は大味とも思えるパワーファイターが好まれており、そこに“怒涛の怪力”と呼ばれた小林はハマったのだ。
このストロング小林の成功のあと、新日本は「貸し出し」ではなく「箔付け」のためにもWWFに選手を送るようになる。75年12月にはアントニオ猪木がMSG(マディソン・スクエア・ガーデン)のリングに初登場し、その存在を本場アメリカでアピール。またこの渡米の際、極秘裏にモハメド・アリの関係者と会談も行い、これが翌年の“世紀の対決”アリvs猪木戦につながっていく。