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「とうちゃんの給料が安い」落合博満“夫人”が猛反論「3億円欲しい」中日・落合まさかの年俸調停のウラで…星野vs落合の不仲説、星野監督との知られざる関係
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中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2025/02/24 11:04
2011年2月オープン戦、中日対楽天。メンバー表を交換する楽天・星野仙一監督と中日・落合博満監督
だから中日を出る決断をした
三冠王のトレード獲得で華やかに幕を明け、唐突に終わりを告げた第一次星野政権だが、その5年間のチームの中心には常にオレ流がいた。不仲が報じられようが、放出が噂されようが、グラウンド上ではどちらも勝つために戦った。星野も、落合も、プロだった。たとえ、生きる上での価値観が合わずとも、いざ仕事となれば認めあい、監督と四番打者として共闘したのだ。
一方で彼らは5年間ともに戦いながらも、同時に一定の距離を保ち続けたのも事実である。常に闘将とオレ流の間には、緊張感が漂っていたが、ある意味、落合は相手チームとだけでなく、監督の星野とも戦っていたともいえるだろう。あの星野仙一と対峙する、緊張と戦いの中に身を置くことで、中日時代の反骨の“オレ流”は成立していたのではないか――。
実際に1991年限りで星野が監督をやめた翌1992年に、前年は三冠王を狙える勢いだった落合の打撃成績は打率.292、22本塁打、71打点と急激に悪化している。のちに40代で再び打率3割を記録していることを思えば、決して年齢的な衰えだけが原因ではないだろう。星野が去った2年後、落合も移籍後ワーストの成績に終わった1993年のオフに、自らFA宣言をして、居心地のいい名古屋と中日を出る決断をする。
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そうして、40歳の落合博満は、新たなる戦いの場所に巨人軍を選ぶのである。
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