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「お前、元々左打ちじゃないだろ」落合博満と会話した記憶は“2つだけ”でも…一軍の壁に苦しむ21歳の野球人生を変えた“オレ流監督の眼力”
posted2025/02/27 06:00

2000年代、「強い中日」を作り上げた落合博満監督。じつは一軍で出場機会のなかった土谷鉄平に対しても、ある働きかけをしていた
text by

間淳Jun Aida
photograph by
Hideki Sugiyama
ドラ5入団も「内野手では一軍に出られないと」
成功者には自身の軌跡を振り返った時、分岐点や転機がある。楽天で首位打者にも輝いた鉄平のプロ野球人生にもターニングポイントと呼べる機会が何度か訪れた。その中で最も大きかったのは間違いなく、2005年のオフと言える。
鉄平は大分県立津久見高校から2001年、ドラフト5位で中日に入団した。
中学までは投手と遊撃手、高校では遊撃手だった鉄平はプロ2年目に入るタイミングで最初の分岐点と直面する。内野手から外野手への転向だった。
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「外野手なら勝負できるというより、はっきり見えていたのは内野手では勝負できないということでした。何年かかっても内野手では一軍の試合に出られないと思いました」
打撃でのミート力に加えて足の速さと肩の強さも評価されてプロ入りした鉄平だったが、高校とプロでは内野手に求められる基準が全く違った。ゴロが速くて捕球できない。さらに、打者の足も速いため内野ゴロをアウトにできないのだ。
上手くいかない焦りから悪循環にはまっていく。捕球から送球までの動きをできるだけ短くしようと工夫すると、送球のコントロールが定まらない。鉄平が内野手をしていた頃の中日の一塁手は、大豊泰昭さんや山崎武司さん、ティモンズという顔ぶれだった。送球に苦労していた新人内野手にとって、一塁方向を見ただけですくんでしまうだろう。
送球イップスから外野手転向…だが一軍の壁は厚かった
鉄平が「今だから言えますが……」とあまり思い出したくない記憶をよみがえらせる。
「当時の一塁手の圧はすごかったですね。皆さんが懸命に捕ろうとしてくれるのですが、ミットの届かないところに自分が送球していました。自分のために頑張ってもらっているのに迷惑をかけている申し訳なさが、余計に自分へのプレッシャーになっていました。結局、イップスになってしまいました」
プロ2年目での内野手断念には、チーム内から「判断するのが早すぎる」という声もあった。だが、数カ月間、首脳陣と話し合った結果、鉄平は外野手への転向を決めた。