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星野仙一が明かした「落合は慌てて謝りにきたよ」星野vs落合の不仲説…中日・落合博満が星野宅で謝罪した日「あいつはシャイ、誤解されやすいよな」
posted2025/02/24 11:03

中日時代の星野仙一監督と落合博満(1991年撮影)。不仲説が流れた2人の本当の関係とは
text by

中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が3刷重版と売れ行き好調だ。
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「あいつは、あわてて謝りにきたけどな」
<1989年1月に突然起きた“落合造反事件”。「罰金2000万円と2カ月間の出場停止」という当初の処分から、どう沈静化していったのか。>
やがて落合の慕う元ロッテ監督の稲尾和久が仲介に入り、騒動は沈静化。1月22日、名古屋に戻った落合は伊藤潤夫代表につれられて、星野宅を訪れ、直接謝罪をしている。
「あいつは照れ屋なのよ。ものすごくシャイな部分と横柄な部分が同居している。それでマスコミにもいいたいことをすべて口に出してはいわないわけ。半分くらいいって、半分は相手に考えさせちゃうから、相手やマスコミが都合のいいほうに解釈して騒ぎになる。中日時代に星野批判をしたといって騒がれたけど、あれもヘンに曲解された面はあるよな。まあ、その後あわててあやまりに来たけどな。申し訳なさそうな顔ですっ飛んできたよ」(週刊現代1994年3月26日号)
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球団フロントや監督との確執。並の選手ならば野球どころではないが、落合はこの1989年に打率.321、40本塁打、116打点で史上初の両リーグ打点王を獲得。1990年も34本塁打、102打点の二冠に輝き、史上初の両リーグ本塁打王とグラウンドで結果を出し続けた。その間、トレード話が度々週刊誌を賑わすが、落合はこう笑い飛ばしてみせた。
「好き嫌いでトレードに出されるのなら、それはオレがプロじゃないということなんだ。戦力としていらないということで出されるのなら、オレを必要としているところに喜んでいくよ」(Number217号)
圧倒的な個人成績を残す背番号6とは対照的に、中日は1989年が3位、1990年は星野政権初のBクラスとなる4位と低迷する。「今年の落合はあまり(球団に)言えないと思う。二冠といってもチームは1位から26ゲーム差をつけられた4位だぞ。野球は個人ではなく、チームでやるものだからな」という星野の落合の高年俸に対するコメントが『東京スポーツ』に掲載され、物議を醸したのもこの頃だ。
闘将とオレ流はいつか衝突し、袂を分かつのではないかと周囲は危惧していたが、実は星野は、野球人・落合博満を誰よりも高く評価していた。
「仲が悪いわけじゃない?」落合はこう答えた
「好き嫌いで野球をやっているのはアマチュア。オレたちは球団と契約して、自分の成績を上げて収入を確保することに全力をあげているのだから、チームが勝てばうれしいし、ベンチで騒ぎもするよ」(Number217号)