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野球のぼせもんBACK NUMBER
ソフトバンク史上最高のドラフトで“まさかの指名”「千賀滉大や甲斐拓也は質問攻めしていた」育成2位の男が語る“出世組との差”「三軍生活が悔しくて…」
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byJIJI PRESS
posted2024/12/30 11:03
4年で戦力外…自分は言い訳していた
迎えたプロ4年目、すでにシーズンも半ばに差し掛かる頃。「正直、もうクビになると思ったので、最後くらいは自分の好きにやらせてほしいと監督に直訴しました」。くだんのコーチにも了承をもらい、中原は再びバットを長く持ち、思いっきりフルスイングをするようになった。苦手だった守備にも取り組んだ。高校時代は一塁専門。プロに入ってすぐに三塁も練習したが、チャンスを得るために外野手や二塁手にも挑戦して生き残るために必死にあがいた。だが、遅かった。2014年10月31日、球団から戦力外通告を言い渡された。
「練習はめちゃくちゃした」
自負はある。それでも結果には結びつかなかった。
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「やり方が悪かったのもしれない。あと……」。中原はこんな風に言葉を継いだ。
「たしかに千賀とか(甲斐)拓也を見ていたら、コーチ相手にもぐいぐい距離を詰めて、質問攻めにしたりしていた。僕は、自分の話し下手を言い訳にして、それをしなかった。そこに彼らとの『差』があったのだと思います」
二軍のウエスタン・リーグはファームとはいえプロ野球の公式戦だが、独立リーグや社会人、大学らと試合をする三軍戦は非公式戦(練習試合)という扱いになる。そのため、中原はプロ野球の世界で何一つ正式な記録を残せないままユニフォームを脱いだのだった。
「もう、野球から離れよう」
当時まだ22歳。あるいは潜在能力を活かせる環境に身を置けば、ひと花咲かすことができたかもしれない。だが、中原は12球団合同トライアウトを受験することもなく、すっぱりとプロ野球選手の道を諦めた。
「戦力外になったオフに入籍することを決めていたんです。いつまたクビになるか分からない世界にいるより違う仕事をする方がいいと思った。やり切った感は正直なかったですが、最後の方は野球を嫌いになりかけていた。もう野球からは離れようと思ったのもありますね」
とはいえ、自営業に興味はあったものの何かやりたいことがあるわけでもないし、そもそも知識が何もなかった。起業するにしても、まずは一般企業で働いて世間の常識とノウハウを学ばなければならないと考えたが、パソコンすらまともに触ったことがない。ただ、体力には自信がある。そこでたどり着いたのが、ある求人だった。
〈つづく〉