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ぶら野球BACK NUMBER
「(落合さんの年俸)どうかと思う」原辰徳がまさかの苦言…落合博満“4億円超”に不満だった巨人ナイン「落合vs原」1994年オフの言い争い
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/10/29 11:00
1994年12月19日、現状維持(1億1500万円)で契約更改した原辰徳(当時36歳)。記者会見で巨人ナインの不満を代弁する
「あの社長が泣いたんだよ」
その試合こそ4打席に立ったが、以降はもはや代打出場すら不可能となり、翌日からはベンチ入りせず、宿舎のテレビで戦いの行方を見守るしかなかった。結局、落合の日本シリーズは第3戦の3打数1安打1四球のみで終わるが、チームが王手をかけて臨んだ第6戦の8回裏、ユニフォームに着替えて東京ドームの一塁側ベンチに入り、歓喜の瞬間に備えた。森祇晶監督の辞任報道にも揺れた西武は攻守に精彩を欠き、「うちが四勝二敗で勝つ。第六戦が山になります。僕はこの第六戦のチケットをいつもの三倍用意しました」(野球は人生そのものだ/長嶋茂雄/日本経済新聞出版)という長嶋監督の戦前の予言通り、10月29日の第6戦に勝った巨人が5年ぶりの日本一に輝いたのだ。
日本一決定の翌30日、大手町の読売新聞本社での優勝報告では、長嶋監督からチャンピオン・フラッグを手渡された渡邉恒雄社長が感極まって涙を流した。さらに11月2日に東京プリンスホテルで開催された、読売新聞創刊120周年・巨人軍創立60周年記念パーティーでも挨拶中に目を赤く腫らし、「ナベツネ男泣き!」とニュースになる。ほとんどのOBが落合加入に強く反対する中、獲得に動く長嶋監督を後押ししたのが、渡邉社長だった。そして、落合自身はその光景を目の当たりにして、オレたちは間違っていなかった、と安堵する。
「あの涙を見て、ああ、オレはこれで報われたと思ったよね。あの社長が泣いたんだよ、みんなの前で。あの涙だけで、オレらがやってきたことは間違いなかったんだ、オレを獲ったことは間違いではなかったんだと思えたんだから。自分の数字はどうあれ、前の年に3位だったのが優勝したんだから。だれが何と言おうと、この事実は変わらない。3人が大博打を打ち、それに勝ったんですよ」(激闘と挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)
長嶋監督「落合も人の子」
長嶋巨人初の日本一を祝う1994年10月30日の銀座パレードには、17万人を超えるファンが集結した。この年限りで現役を引退する篠塚和典とオープンカーに乗り、沿道の声援に応えた落合は、翌95年から篠塚の「背番号6」を譲り受けることになる。
移籍前は衝突も危惧されたオレ流と巨人ベテラン陣の邂逅。なお、日本シリーズ中、指名打者制のない本拠地・東京ドームで「四番一塁」に入った原辰徳は、負傷した落合のファーストミットを借りて守備に就いた。
一匹狼と言われた男が、巨人ナインから受け入れられつつあったが、その姿を苦々しい思いで見る人間もいた。