「こいつになら負けてもいいかな、と思ってしまった」

　対井上は3戦3敗。負けて泣き、追いかけても遠ざかっていく。悔しい。なぜなんだ……。だが、ある日、その気持ちに変化が生じる。全日本合宿で一緒になったときだった。試合を控えた井上はマス・ボクシングが終わり、ミットを打ち、持っているものをすべて出し切っているかのようだった。減量が厳しい選手の中には周囲に当たり散らす者もいた。井上はサウナスーツを2枚着込んで、己と向き合いながら淡々とメニューをこなしている。

　柏崎には、誰よりも練習しているという自負心があった。しかし、目の前にいる高校生は別格のような気がしてきた。

「尚弥の取り組みのレベルが本当に高くて、すごいな、年下なのに、なんでこんなにできるんかな、と思うくらいやっていた。そのとき、こいつになら、ちょっと負けてもいいかな、と思ってしまったんです」

　柏崎はボクシングを始めた幼い頃、指導者が存在せず、父から「ああしろ、こうしろ」と言われ、自分なりに考えて練習してきた。試合後には、どうすればさらに強くなれるか、常に強化のポイントを見いだしてきた。だが、どうしても反省点や改善点が見当たらない日も出てくる。今、何を目的にこのサンドバッグを叩けばいいのか。ぼんやりと体を動かしながら、目的地を探していく日もある。

　ところが、井上の練習を見ていると、そういった瞬間が一切ない。これをやれば強くなると明確な道しるべがあり、一つ一つの動きが意図を持っているように映る。

「尚弥の練習からは、こうなりたい、とか、ここを意識しているんだなと感じるんです。マス（・ボクシング）にしても『拳で会話する』じゃないですけど、何も考えていない選手と、ここを練習しているんだな、という選手の違いはやっぱりわかりますからね」

　悔しいけど、負けてもしょうがない。井上の練習を目の当たりにして、初めてそう思った。

＜続く＞

#3に続く

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