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五輪落選史「谷間の世代」長谷部誠や川島永嗣は順当、キャプテン鈴木啓太は発表当日まさか、北京の家長昭博らは30代で…悪夢のち逆転人生
text by
生島洋介Yosuke Ikushima
photograph byAFLO/Toshiya Kondo
posted2024/07/03 11:01
アテネ世代の鈴木啓太と、北京世代の家長昭博。それぞれ才能を持つMFながら、五輪とは縁がなかった
ダブルセントラル方式だった最終予選UAEラウンドで、日本は選手の大半が猛烈な下痢に襲われるピンチに陥った。ここで奮闘したのが、落選した森崎和幸に代わりキャプテンを務めていた鈴木だった。
ピッチ内外での働きで日本ラウンドへつなぎ、出場権獲得に大きく貢献。だが、本大会のメンバー発表当日、浦和のクラブハウスに用意された会見場には、闘莉王と田中達也だけが呼び出された。
悔しさを味わった鈴木だが、やがてオシムに重用され、彼のもとでは唯一の全試合出場を果たした。2006年10月、浦和と代表で充実した日々を送る鈴木は、Numberのインタビューにこう語っていた。
「もちろん得られたはずの経験を思えば行けたほうがよかったけど、事実として、僕に実力が足りなかったんだって本当に思う。あそこで、あの予選で、僕のオリンピックは完結したんだなって」
長谷部と川島の落選は“順当”だった
また五輪代表からも外れながら南アフリカに到達した選手には、後に代表チームの中心に長く君臨する2人のビッグネーム――長谷部誠と川島永嗣がいる。
ただ、長谷部はU-20代表も候補止まりで、五輪代表ではキャンプ招集もなし。浦和ではプロ1年目のリーグ戦出場はなく、2年目の03年に出場試合数を大きく伸ばしたが、トップ下とボランチの併用でベンチスタートも多かった。鈴木啓太とのダブルボランチが定着したのは04年の途中からで、磐田戦で伝説のゴールが生まれたのも五輪の後だ。
一方の川島永嗣は、PK戦にもつれたアジアユース準決勝で日本を救い、守護神として03年ワールドユースでベスト8に進出したが、04年にJ2の大宮から楢崎がいる名古屋グランパスへ移籍したため、クラブでの出場機会が激減。両者とも当時としては順当な落選だった。
アテネ世代が南アフリカで躍動したころ、彼らに“谷間の世代”という形容は似つかわしくなくなっていた。
北京世代は長友、香川、本田らがいた一方でOA未招集
【2008年:北京五輪】
〈北京五輪代表メンバー〉
GK:西川周作、山本海人
DF:吉田麻也、水本裕貴、長友佑都、森重真人、内田篤人、安田理大
MF:細貝萌、本田圭佑、梶山陽平、谷口博之、香川真司、本田拓也
FW:豊田陽平、岡崎慎司、森本貴幸、李忠成
バックアップメンバー:林彰洋、青山直晃、上田康太、梅崎司
〈代表漏れした主な選手〉
青山敏弘、伊野波雅彦、家長昭博、平山相太、興梠慎三、槙野智章
反町康治監督のもと、ホーム&アウェイ方式の長丁場だった最終予選をグループ1位で突破した北京世代。本大会の前年に出場を決め、本番までの長い強化期間に選手の成長度合いを見極めた結果、最終予選からは多くのメンバーが入れ替えられた。