近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
ドジャース同僚がキャッチボールすら拒否、食堂も出禁…野茂英雄がメジャー1年目に経験した「スト破り選手の1軍昇格事件」
posted2024/06/02 11:03
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Koji Asakura
阪神担当の筆者だったが…
野茂英雄がメジャーへ旅立った1995年、サンケイスポーツで野球記者2年目のシーズンを迎えた私は、近鉄から阪神へ担当が変わることになった。
当時の阪神タイガースは「暗黒時代」と呼ばれていた。
ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布らを擁する強力打線で、球団初の日本一に輝いたのは1985年(昭和60年)。しかし、その翌86年から94年までの9シーズンでAクラスは2度だけ。最下位も4度と、90年代はまさしく“勝てない阪神”だった。
それでも、大阪のスポーツ新聞は勝とうが負けようが、試合があろうがなかろうが、何が何でも、毎日の1面は「阪神」だった。
私には海外留学経験があったわけでもないのだが、なぜか英語が得意だった。近鉄担当時代には、藤井寺球場に近鉄電車で通勤していたラルフ・ブライアントと車内で遭遇することも多く、ちょっとした会話を交わしたことで、原稿に使える小ネタもよく頂戴した。
そのせいか、阪神担当になると外国人担当を命じられ、当時の助っ人だったグレン・デービスとスコット・クールボーの2人に密着することになった。神戸・六甲に住んでいた2人は、通常なら甲子園までタクシーで通うのだが、阪神・淡路大震災の被害で高速道路は寸断、国道も復興事業のため、大型トラックの行き来も増え、道路が慢性的に渋滞していた。
そこで2人は、1995年の開幕当初、御影駅までタクシーで来て、そこで阪神電車に乗り換えて、甲子園に通っていた。私は御影駅で待ち受け、毎日のように2人と一緒に電車に乗って、球場へ行った。車内で聞き出したネタで、よく1面も飾らせてもらった。
ただチームの成績は伴わず、監督の中村勝広が成績不振を理由に球宴前の前半戦終了をもって休養、藤田平が監督に就任するという“政変”が起こった。
そしてその頃、アメリカでは「野茂フィーバー」が巻き起こっていた。