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“ドラフト最下位指名の男”が味わった絶望「もうダメかな…」“遅れてきた大谷世代”佐野恵太が下剋上を果たすまで「甲子園が羨ましかった」 

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酒井俊作

酒井俊作Shunsaku Sakai

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photograph byKiichi Matsumoto

posted2024/06/30 11:01

“ドラフト最下位指名の男”が味わった絶望「もうダメかな…」“遅れてきた大谷世代”佐野恵太が下剋上を果たすまで「甲子園が羨ましかった」<Number Web> photograph by Kiichi Matsumoto

ドラフト9位からの「下剋上」を果たした横浜DeNAベイスターズの佐野恵太。あらためてプロ入りまでの足跡を振り返ってもらった

いま振り返る運命の日「もうダメかな、と何度も…」

 プロ野球人生は悔しさから始まった。2016年10月20日のドラフト会議。東京六大学野球での春秋連覇を目前にしていたことが示すように、明治大にはプロ注目の選手が多かった。寮の食堂で仲間と行方を見守るなか、まず主将の柳裕也が中日に1位で指名され、立て続けに星知弥もヤクルトの2位で名前を呼ばれた。だが、そこからが長い。日は傾き、窓の外は夕闇に溶け込んでいた。

 佐野の名前は呼ばれず、支配下選手の指名を終える「選択終了」の文字がモニターに映るたび、絶望の色は濃くなっていく。

「『もうダメかな』と何回も思いましたね。『もうプロへの道はなくなってしまうのかな』という不安な思いがずっとありました」

 会議が始まって2時間近く経った時だった。佐野の名前が呼ばれた。DeNAの9位で指名されたのだ。支配下選手87人中、84番目だった。ホッとしたのもつかの間、複雑な感情がこみあげてきた。

「指名は一番下だけど、上位指名の選手には負けたくない。自分で道を切り拓いていかないといけない」

 大学生の9位という低評価だったが、周囲からはプロ入りを反対する声は出なかったという。ただ、社会人入りを勧める意見はあった。プロ野球選手を数多く輩出している、母校の広島・広陵の中井哲之監督もそのひとりだった。

「社会人に行って2年後のドラフトで上位を目指してもいいんじゃないか」

 だが、佐野は首を縦に振らなかった。

 恩師である中井に伝えた。

「今すぐプロに行って勝負したいです」

 背中を押してくれる声もあった。佐野の伯父であり、当時、ソフトバンクの三軍打撃コーチだった佐々木誠である。佐々木もまた、83年ドラフトでチーム最下位の6位で南海に指名されてプロに入っていた。その後、下位評価を覆し、90年代の初頭に首位打者を1回、盗塁王を2回獲得し、球界を代表するリードオフマンとして活躍した。年末年始に岡山に帰省した佐野は佐々木と会ったとき、こう言われた。

「入ってからが勝負だから。最初の3年が大事になるぞ。だから、死に物狂いでやるんだぞ」

「全国区の選手」ではなかった高校時代

 佐野はこれまでも、輝かしいスポットライトを浴びてきたわけではなかった。岡山の「倉敷ビガーズ」でプレーした中学時代はU-15日本代表に選出されたが、広陵での高校3年間は甲子園に届かなかった。岩手・花巻東の大谷や大阪桐蔭の藤浪晋太郎らが勇躍する晴れ舞台とは無縁だった。

【次ページ】 監督に直訴「キャッチャーはやりたくないです」

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