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「どうせメジャーでは通用せん」批判も…近鉄も予想外だった、野茂英雄26歳の“任意引退”「1億4000万円を捨て、年俸980万円を選んだ男」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/03/03 17:05
1995年1月9日、近鉄を任意引退し、退団することを発表する野茂英雄(当時26歳)。前年の推定年俸は1億4000万円だった
あるときは、「ミチさん、明日、メジャーのスカウトが(投球を)見たいっていうんですけど、ブルペンで投げていいですか?」と聞いてきたので許可すると、やはり凄まじいボールを投げ込んだ。
当時の労組選手会会長の岡田彰布は、自著『プロ野球 構造改革論』(宝島社新書)で、近鉄退団騒動の渦中に野茂サイドから「会いたい」とコンタクトがあったことを明かしている。伝え聞くところによると、どうもメジャーへは行かないという内容らしい。会合日時は1995年1月17日午後7時、大阪市内のホテルで待ち合わせることに決まった。だが、まさに約束の日の17日早朝、関西地方に大きな地震が起きるのだ。阪神・淡路大震災である。プライベートで四国にいた岡田は、飛行機が伊丹空港に着陸できる状態ではないことから大阪入りを諦める。結局、その直後の混乱で野茂との会合も自然消滅してしまったという。
もし、あの時、地震が起きなければ、もしくは数日早く会っていれば……。いや、そもそも強い大リーグ志向を隠そうとしなかった男が、土壇場になって「メジャーへ行かない」なんて言い出すだろうか。誰かが、何らかの意図で、選手会会長の岡田に野茂サイドを説得させるために一席設けようとしたと考えるのが自然だが、真相は藪の中だ。
「980万円の男」
だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。
2月13日、ロサンゼルス・ドジャースの入団会見に臨んだ野茂は、メジャー未経験者としては過去最高の契約金200万ドル(約1億7000万円)と最低保障年俸の980万円での挑戦となった。前年から続く長期ストライキが終わったのは4月2日で、開幕が例年より1カ月遅れたが、これにより肩の故障で実戦から遠ざかっていた野茂はキャンプ地のベロビーチでじっくり調整することができたという。
5月2日のジャイアンツ戦での歴史的な初先発後、打線の援護に恵まれず初勝利まで1カ月かかったが、そこから連続完封を含む6連勝。6月14日のパイレーツ戦では16奪三振を記録した。地元ロサンゼルスで「NOMOマニア」と呼ばれる熱狂的ファンを生み、オールスター戦にも先発登板。ルーキーイヤーに13勝を挙げ、リーグトップの236奪三振を記録して新人王に輝いた。過去の日本人大リーガーにはマッシー村上というパイオニアはいたが、まだ27歳の全盛期の“日本のエース”が遠くアメリカの強打者たちをフォークボールで三振に斬って取るインパクトは凄まじいものがあった。
その様子は日本国内のメディアでも大々的に報じられ、「週刊現代」の「各界100人が選んだʼ95年『日本の顔』」では木村拓哉やイチローを抑え、野茂は44票を集め1位に輝いている。
「メジャーでは通用せんやろ」
一方で渡米前後には、近鉄退団前にメジャー球団と交渉していたタンパリング疑惑も報道され、球界OBや記者から辛辣な意見が多々あったのも事実だ。