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「どうせメジャーでは通用せん」批判も…近鉄も予想外だった、野茂英雄26歳の“任意引退”「1億4000万円を捨て、年俸980万円を選んだ男」
posted2024/03/03 17:05
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
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「もう辞めてくれ」「これ、任意引退証」
「ベースボールマガジン」別冊薫風号「野茂英雄と近鉄バファローズ」によると、近鉄の投手コーチで野茂の理解者だった佐藤道郎は、年が明けた1995年1月5日頃、前田泰男球団代表から電話があり、野茂サイドと7日に名古屋で会うから同席してくれと依頼されたという。佐藤は南海時代、野村克也の家で高校生の団野村と面識もあった。交渉の席上で近鉄側は総額1億円近い出来高契約を提示するも、それらには目もくれず「メジャーへ行かせてください」と主張する野茂。話は平行線を辿り、意見を求められた佐藤は「代表、天下の近鉄なんだから、バンザイして(メジャーに)行かせてあげましょうよ!」と思い切って発言する。これを受け、前田代表も「俺も微力ながら努力するよ!」とメジャー挑戦を容認するのだ。そして、1995年1月9日、野茂は任意引退と大リーグ入りの決意を記者会見で語るのである。
「俺がメジャー行くときの契約交渉なんて、『もう辞めてくれ』と言われたからね(笑)。『じゃあ、辞める』と言ったら、『ああ、どうぞ。じゃあこれ、任意引退証』。辞めてくれてラッキー、みたいな感じや」(「Number」594号)
真実はひとつだが、事実はどちらのサイドから見るかで大きく変わる。のちに野茂自身は当時の裏側をそう語り、『NHKスペシャル 平成史スクープドキュメント』「大リーガーNOMO~“トルネード”・日米の衝撃~」では、一回目の契約交渉前に任意引退になっていたことを明かし、「任意引退になればメジャーに行けるよということだったので、実際それがすぐそんな簡単にとれるか、近鉄がそこまで簡単に辞めさせてくれるかなと思っていたんですけど」と告白している。彼は己の野球人生を懸け、断固たる決意で球団と対峙していたのだ。
消えた…“ナゾの”岡田彰布との約束
仲の良かった吉井理人のように、1994年の二軍調整中に野茂の口から「(来年は)アメリカに行きます」とはっきり聞いた同僚選手もいれば、鈴木監督とぶつかり三軍投手コーチに降格していた佐藤は野茂とキャッチボールをした際に勢いのあるボールがきたので驚き、「肩、痛いんだろう?」と思わず問うと、トルネードは笑いながら「はい」と答えてまた豪速球を投げ返したという。