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「どうせメジャーでは通用せん」批判も…近鉄も予想外だった、野茂英雄26歳の“任意引退”「1億4000万円を捨て、年俸980万円を選んだ男」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/03/03 17:05
1995年1月9日、近鉄を任意引退し、退団することを発表する野茂英雄(当時26歳)。前年の推定年俸は1億4000万円だった
会社に命じられまったく予備知識なく球場に来たり、プライベートまで執拗に追いかける記者に嫌気がさしてコメントを拒否することもあった野茂は、一部のマスコミと険悪な関係にあった。
そして、近鉄の鈴木啓示監督は、「週刊ポスト」1995年2月10日号で「自己満足、ここに極まれりやで」なんて袂を分かった元エースを痛烈に批判。「世の中、そんなに甘くないやろ。自分の思うようにならんのが人生や。そんな簡単にメジャーでは通用せんのとちがうか。夢も結構やが、自分の力というのもわかっとらんといかん」と怒れる元300勝投手だったが、絶対的エースを失った1995年の近鉄は8年ぶりの最下位に低迷。鈴木監督はシーズン途中に辞任した。
その野球人生は革命だった
上司である監督とぶつかり、球団という会社に対する不信感を抱き、彼はひとり夢を追いかけ海を渡った。そんな無謀とも思える戦いに挑んだ野茂を日本のプロ野球選手たちはどう捉えていたのだろうか。自身もメジャー移籍のチャンスをうかがっていたオリックスの長谷川滋利は、祈るような気持ちで日本から同学年の野茂の投球を見ていたという。
「日本のナンバーワン投手が通用しなかったら、日本人がメジャーでプレーするチャンスはなくなってしまう。応援というか、日本の力を証明してくれという気持ちが強かったですね」(「Number」714号)
1995年、ひとりの投手がMLBでトルネード旋風を巻き起こし、結果的にあとに続く日本人選手たちの道を作った。日米での新人王獲得は、長い球史において野茂ただひとり。MLBで二度のノーヒットノーランを含む123勝を挙げ、近鉄時代の78勝と合わせて日米通算201勝の金字塔。2014年には日本の野球殿堂入りも果たしている。偉大な記録の数々だが、その功績はあらゆる数字の価値を超えたところにある。
野茂英雄の野球人生は、記録でも、記憶でもない。革命だった。
<前編、中編から続く>