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スカウトが酷評した高校生ピッチャー「あんなフォームじゃとらへん」“無名だった”野茂英雄10代の挫折…職場でも説教「はよ仕事覚えろ」
posted2024/03/03 17:02
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
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公立高ピッチャーの“小さな”完全試合
青春とは、挫折の物語である。
野茂英雄の野球人生も、挫折の連続だった。名門の近大附属高校のセレクションに落ちて中学の先輩がいる公立校の成城工業高(現・成城高)へ。2年夏の大阪大会2回戦で背番号10をつけて完全試合を達成するも、新聞を広げてみると1学年上のPL学園のKKコンビ、桑田真澄と清原和博が大きく取り上げられ、自分の記事はほんの小さなものだった。
「完全試合はみんなのおかげ。なんだか夢を見ているようです。次は、とにかく勝ち進んでPLと対戦してみたい」
これは、「週刊ベースボール」1985(昭和60)年8月5日号の初々しい野茂のコメントである。休み時間に早弁を食らう富田靖子の大ファンの高校生は、プロ野球にはほとんど興味を示さず、甲子園とも無縁の環境だったが、自由にプレーできたからこそ、あの独特な投球フォームも監督やコーチに直されることはなかった。
幼少時に父親から「ザトペック投法の村山実のように体全体を使って投げてこい」と言われ、背中を相手に向けるほど腰を大きくひねり、ため込んだ力を腰に乗せ、一気に解き放つ投球フォームは、のちに野茂の代名詞に。高校時代、その剛球を受け続けた捕手の人さし指は激痛に襲われ、病院へ行くと骨にヒビが入っていた。
「おまえみたいな奴がプロに行けるか!」
巨人や日本ハムがドラフト外で獲得を検討する一方で、大学や社会人のスカウトからは「あのフォームじゃウチはとらへん」と酷評されるが、社会人野球の新日鉄堺に進んだ先輩が「男だったらひとつくらいは周りに何を言われても変えんもんを持っててええんちゃうか」と言ってくれたという。それ以来、野茂は自分の投球フォームを絶対に変えないと心に誓った。
ちなみに野球選手のヒエラルキーは一般社会とは逆だ。高卒でプロ入りするほうが、名門大学や大企業のチームでプレーするより選手間の序列は上なのである。学歴や偏差値じゃヒットは打てやしない。だから、高卒でプロ入りして、10代から活躍した清原や桑田は同世代でも別格の存在だ。彼らが8000万円の契約金を手にした1年後、野茂は月9万円の初任給で社会に出た。
新日鉄堺に進み営業部所轄の野球部でプレーするのだ。