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「野茂は太りすぎや」「キミはエースじゃない」監督も球団幹部も苦言…なぜ野茂英雄は近鉄と決裂した? 野茂が怒った“あるコーチの退団”
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/03/03 17:04
1992年オフの契約更改での近鉄・野茂英雄。当時日本人ピッチャーで最高給となる推定1億1600万円でサイン
野茂vs鈴木「ついていけません」
鈴木啓示と野茂英雄。とにかくふたりの偉大な大投手は水と油だった。まるでバブル全盛期のエース営業マンが管理職となり、Z世代とぶつかるような価値観の相違とジェネレーションギャップ。ひたすら走り込みと投げ込みで今の地位を築いた鈴木にとって、ウエート・トレーニングに没頭し、大リーグのビデオを見る若者のことは理解しがたかった。野茂は自著『僕のトルネード戦記』(集英社)の中で、当時の近鉄で感じた違和感を吐露している。
「近鉄のあるコーチの口癖なんですが、野球を会社にたとえるなら、監督は社長、コーチは部長か課長、そして選手は平社員であると。ヨソの球団はどうなのか知りませんが、こういう考え方にはついていけません」
自分が上の立場だからと一方的に叱るのではなく、選手を理解して気持ちよくプレーする環境を作るのが首脳陣の仕事ではないのかと野茂は憤るのだ。
まさかの“交渉決裂”
プロ5年目の94年、春先から肩の違和感を訴え続けるも、開幕の西武戦であわやノーヒットノーランの快投を見せるが、9回裏に先頭の清原に初安打を許し、一死満塁のピンチを招くと鈴木監督はあっさり無失点のエースを交代させる。ブルペンでまさかの交代に動揺したリリーフの赤堀元之は、伊東勤に逆転サヨナラ満塁弾を浴びる最悪のスタート。
それでも傷心の背番号11はハーラートップ争いに踏み止まり、7月1日の西武戦でプロ野球ワースト記録の1試合16四球を出しながら、3失点完投勝利。なんと191球を投げた。
もはや監督とは満足に会話を交わさない冷戦状態にあったが、野茂は一度でいいから、近鉄の仲間たちと優勝を味わいたくて懸命に投げたのである。「これが野茂。野茂にしかできんピッチングや」なんて喜ぶ鈴木監督だったが、さすがに無理がたたり7月15日の登板で右肩の違和感を訴え2回で降板。二軍調整後に復帰した8月24日の西武戦でも球速は130キロ台止まりで、3回で右肩痛を訴えマウンドを降りた。結果的にシーズンラスト登板となるが、この直後に野茂は、連日1時間のジョギングを自らに課し、3カ月で10キロ近い減量に成功する。その鬼気迫るトレーニングがなにを意味するのか、周囲はエースの胸中を知る由もない。
嵐の予兆は確かにあったのだ。「球団がどう考えてくれているか、ですから。今のボクの口からは何ともいえません」と秋口から語り、肩痛の公傷扱いが焦点になると思われた1994年オフの契約更改。