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「野茂は太りすぎや」「キミはエースじゃない」監督も球団幹部も苦言…なぜ野茂英雄は近鉄と決裂した? 野茂が怒った“あるコーチの退団” 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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posted2024/03/03 17:04

「野茂は太りすぎや」「キミはエースじゃない」監督も球団幹部も苦言…なぜ野茂英雄は近鉄と決裂した? 野茂が怒った“あるコーチの退団”<Number Web> photograph by KYODO

1992年オフの契約更改での近鉄・野茂英雄。当時日本人ピッチャーで最高給となる推定1億1600万円でサイン

 プロ2年目のオフ、体を休めることを優先させようと日韓野球の代表を辞退するが、連盟から「リーグの顔として出てもらわなければ困る」と要請されると、投げることはなくベースコーチャー役を務めた。

 3年連続最多勝に輝いた1992年は、NHK紅白歌合戦の審査員席からステージに向かってボールを投げ入れる大役を務め、契約更改では「誰かが貰うことで、後からついていく者が上がっていくと思う。それに、誰も(不満を)強く主張しない近鉄の風潮をボクが変えたかったこともある」(「週刊ポスト」1993年1月22日号)とチームを引っ張る1億円プレーヤーの自覚を語った。

 名実ともに球界を代表する大エースになった野茂だが、4年目の1993年シーズンに転機が訪れる。プロ入り時の恩師・仰木彬が近鉄を去り、往年の300勝投手・鈴木啓示が新監督に就任したのだ。

「いまのまま、野茂が勝ち続けられるほどプロは甘くない。近いうちにダメになる。いや、もうその兆候は出とる。一番は太りすぎや。走り込みが完璧に不足しとる。本人はウエートトレで、と考えているようだが、やっぱり走らな。投げ込みもそうや」

 前半戦は左足首の捻挫もあり勝ち星が伸びなかった背番号11に対して、鈴木監督はワシの現役時代はとことん走り込んだもんやと度々苦言を呈す。

球団幹部「キミはエースではない」

 それでも、野茂は心折れず後半戦に驚異の巻き返しをみせる。10月1日のロッテ戦で打球を右側頭部に受け頭蓋骨骨折の診断を受けるも、その8日後に144球を投げて勝利投手となる超人的なタフさをアピールし、次の中4日の登板では182球で16勝目、さらに中2日で上がった西武戦では177球の熱投で17勝目と、近代野球では異例の鬼気迫る投げっぷりで4年連続の最多勝を手中に収めるのだ。

 だが、相手の西武・森祇晶監督から「野茂君のためにゲームをやったようなもの。何の価値もないタイトル」と酷評され、球団幹部には「キミのことはエースとして扱っていない。最多勝のタイトルは意味がない。内容がない」と言い放たれた。追い打ちをかけるように、信頼していた立花コンディショニングコーチは、選手の調整法をめぐり鈴木監督とぶつかり退団。野茂は球団に対して「なぜやめさせたんだ?」と怒り、翌春には立花氏と個人契約を交わし、自主トレに同行させた。今思えば、いくつもの決裂の伏線が存在し、不穏な雰囲気のまま、野茂は1994年の近鉄ラストシーズンを迎えることになる。

【次ページ】 野茂vs鈴木「ついていけません」

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