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スカウトが酷評した高校生ピッチャー「あんなフォームじゃとらへん」“無名だった”野茂英雄10代の挫折…職場でも説教「はよ仕事覚えろ」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/03/03 17:02
1989年ドラフトで史上最多8球団の指名を受けた野茂英雄。契約金1億2000万円、年俸1000万円、当時としては破格の条件で近鉄へ
午前中は職場で通常業務に就き、仕事を覚えろと説教する上司に「僕はプロに行くからいいです」と言えば、「おまえみたいな奴がプロに行けるか」と一蹴された。社会人1年目、都市対抗代表決定戦では、1点を追う8回、野茂が被弾してチームも敗れる。号泣する19歳は、直後の残念会と化した飲み会で、ひとまわり年上の先輩投手・清水信英に別室に連れ出され、エースの心得を説かれた。この時の「マウンドでは一喜一憂するな」というアドバイスを忠実に守り、その後はポーカーフェイスで悔しさを胸に秘め、先輩の投球を見て盗んだフォークボールを磨くのである。
野茂は2年目からエースとなり、都市対抗ベスト8にも進出。ソウル五輪の日本代表にも選出された。だが、「Number」1009号の「ソウルの選手村に響いた怪物の怒声。」(長谷川晶一)によると、銀メダルを獲得するも、当時の野球は公開競技で他種目の有名な指導者から「君たち、何の競技なの?」と鼻で嗤われたという。野球のユニフォームを着ているにもかかわらずだ。野茂はバスの中で「これがレスリングする格好に見えるか、ボケ! 野球じゃ、アホ!」と怒りを露にする。だが、一方では無邪気に陸上の松野明美にサインを貰うハタチの才能は、世界の舞台を体験したことで凄まじいスピードで進化していく。翌89年には日本・キューバ野球選手権大会で、アマの世界最強軍団に対して野茂は2勝1敗の快投。チームも3勝2敗と勝ち越した。挫折と挑戦を繰り返し、気がつけば、89年ドラフト会議の目玉選手となっていた。
先輩ピッチャー「冗談じゃないよ」
しかも、元木大介(上宮高)や大森剛(慶大)といった有力選手たちが競うように逆指名会見をして巨人入りを熱望する中、野茂だけは我関せずと希望球団すら口にしなかった。当時、国民的人気を誇っていた巨人にもまったく興味を示さなかった野茂には、史上最多の8球団が競合。
近鉄が交渉権を獲得すると、投球フォームを変えないことを条件に入団。社会人時代は保険や寮費を引かれて手取り6万円ほどの給料で、ホンダ・シビックの中古車をローンで購入した男は、史上最高額の契約金1億2000万円、年俸1000万円という破格の条件でプロ入りする。
だが、特別扱いを面白く思わない選手も出てくる。