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武豊が惚れ込んだ“消えた天才”…あの超良血馬はなぜ勝てなくなったのか?「エアグルーヴにそっくりな弟」が地方競馬で迎えた“悲しい結末”
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph bySankei Shimbun
posted2024/02/13 11:00
2002年、若駒ステークスで無傷の3連勝を決めたモノポライザー。武豊が惚れ込んだ超良血馬には、輝かしい未来が待っているはずだった
地方・佐賀競馬で迎えた悲しい結末
翌2003年の京都金杯は5着、河内洋に乗り替わった初ダートの平安ステークスは12着に敗れる。武に手綱が戻った大原ステークスで、大外から一気に差し切り、約1年ぶりに勝利をおさめた。結局、これがJRAでは最後の勝利となった。
つづく天皇賞・秋で16着、カシオペアステークスで7着となってから武は乗らなくなり、その後、岩田康誠、武幸四郎、柴山雄一、蛯名正義、ミルコ・デムーロ、上村洋行、川田将雅と、さまざまなジョッキーに乗り替わり、芝とダートのいろいろな距離のレースに臨んだが、勝てなかった。
中央での戦績は、23戦5勝、3着1回。
7歳だった2006年8月のKBC杯で最下位の14着に敗れたのを最後に、地方の佐賀競馬に移籍した。九日俊光厩舎の所属馬となり、山口勲を背に、2007年の1月から5月まで8連勝を遂げる。佐賀ではその年の7月まで走り、14戦9勝、2着2回、3着2回と、ほぼパーフェクトな成績。移籍初戦以外の13戦すべてで1番人気の支持を得る注目ぶりだったが、7月22日のレースで3着になったあと骨折、予後不良となった。
武豊と橋口弘次郎という日本を代表するホースマンに大きな夢を抱かせた逸材は、その才能を完全には開花させることなく、世を去ってしまった。3歳春の熱発、武の負傷あたりから歯車が噛み合わなくなったのか。あるいは、どこかに痛いところがあったのを我慢して走っていたのか。もともと馬に聞いてみないとわからないことだし、もはや確かめようがない。
それでも、若駒ステークスまでの3戦で見せたスケールの大きな走りと、その目撃者となった瞬間の鼓動の高まりは、いつまでも忘れることはできない。
<「シルバーステート編」につづく>