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プロ野球PRESSBACK NUMBER
33歳で戦力外通告「おっさん、早せえや!」元巨人ピッチャーが“15歳の職人”から痛烈な洗礼…地獄の現場から年商160億の社長へ逆転人生
text by
松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byKYODO
posted2023/12/30 11:03
1993年ジュニア選手権(現・ファーム日本選手権)で優勝を決め、マウンドで喜ぶ松谷竜二郎と捕手・吉原孝介
休んだのは正月を入れた3日ほどで、あとはひたすら勉強のために一生懸命仕事をした。建築関係の専門書も読み漁り、現場では怒鳴られながらも実戦で覚えていく日々の繰り返し。
机の上の勉強だけでは覚えきれない。現場に出ることで、体感して身につけていく。野球でも同じだ。いくら練習で変化球をマスターしようが、実戦で通用しなかったら意味がないし、また実戦でしか身につかないものがある。仕事もどれだけ知識を詰め込もうが、現場で活かせなかったら絵に描いた餅。知識の重量は、役に立ってこそ重さがわかる。頭で覚えるだけでなく、身体に染み込ませなくては成果が上がらない。
勉強し現場で覚えての繰り返しで知識と技術をマスターしていく。辛くなったら末次のことを思い出し、「恥かかせられん」と踏みとどまり、また現場に行って実戦で勉強する。そんな生活を1年も続けていると、なんとか営業で契約が取れるまでに成長した。
倒産した建設会社を引き継ぎ
しかし、入社して2年経つと会社の経営が傾き出し、2000年に倒産してしまった。だが、松谷は途方にくれることはなかった。この2年間、心血注いで猛勉強しながら一生懸命仕事をしたおかげで建設業界のノウハウは完全に叩き込まれた。
松谷を含めた元同僚三人で休眠状態だった建設会社を引き継ぎ、2000年11月に東京都千代田区麴町に事務所を構えた。松谷は、この2年間で身につけた床版工事(人や物の荷重を支える構造物“床”を構築する工事)の知識を駆使し、他社と組んでデッキプレート(鋼製床版)をメインとする床版工事を多く手掛ける。その後、三人が合流し、前職の上司でもある元巨人のキャッチャーでトレーニングコーチだった阿野鉱二を代表取締役に迎えた。
創業当初こそ小規模な現場の受注がメインだったが、大阪ガス時代に培った人脈を使って徐々に大手・準大手のゼネコンが扱う大規模現場工事を受注し、実績を拡大していく。
「イトーヨーカドーやイオンなどの商業施設やディズニーランド、ディズニーシーなどの大型アミューズメント施設も手懸けてきました。ゼネコンから請け負って、主に床のベースになるデッキプレートを組み込み、生コンを流す直前までの工程を行う専門工事をします」
02年に社名を「株式会社にちおん」から「スチールエンジ株式会社」に変更し、03年6月、みんなの後押しもあって松谷は代表取締役に就任した。