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プロ野球PRESSBACK NUMBER
33歳で戦力外通告「おっさん、早せえや!」元巨人ピッチャーが“15歳の職人”から痛烈な洗礼…地獄の現場から年商160億の社長へ逆転人生
text by
松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byKYODO
posted2023/12/30 11:03
1993年ジュニア選手権(現・ファーム日本選手権)で優勝を決め、マウンドで喜ぶ松谷竜二郎と捕手・吉原孝介
「経営的なセンスはないですね。大阪出身なんで商売っ気はありましたけど、それくらいじゃないですか。別に何か資格があったわけじゃないし、特別に何かに長けているわけでもなかった。小さい頃からプロ野球選手になりたくて、その世界の入り口まで行けた。活躍するかしないかは別として9年間やらせてもらったんで、燃え尽き症候群ではないですが人生はほぼ終わった。
その後どうなるんやろ、変なことにならんようにしなあかんという怖さや不安などまったくなく、自分は何ができるんやという思いの中で、月に100万円稼げるようなものがあったらええなと。マグロ漁船に乗ろうかなと考えたり、佐川急便の先輩のところへ行ったり、いろいろな媒体を見て会社訪問にも行ったりしました。
でも最終的に就職先の決め手になったのは、末次さんが紹介してくれ、藤田さんも関係している会社で、そこの社長が『いずれ社長になって貰いたい』と言った言葉です。社長ということで人に使われないだろうし、面白いやろうな、社長は給料たくさん貰えるだろうな。社長=高給取りが最終的な決め手になりました。でもやってみると全然違って、月額30万円貰えるかどうか。最初はこんな感じでした。
自分で会社を起こして何かやろうというより、それなりのサラリーが欲しかったのが一番で、社長は人に使われる感じじゃないからいいかなと。たまたまやらざるをえなくなって最終的に代表となった感じですね。
メンタル的にそんなにツラいと感じないです。スランプ、ストレスも感じず、明日になったらなんとかなるやろうというほうが強かった。ただ守ったのは、周りの人を気にかけること。何をやるんでも生きている限り人と交わることが多いからです。野球は自分の腕一本で三振取れば点は取られないから負けることはない。
でも、この事業は自分の力だけでは絶対に無理であり、自分の力というものが非常に小さいものだとだんだんと気付かせてくれる。だからどちらかと言えば自分ではなくて、周りの人間がどれだけやってくれるか。それが一番大事なことじゃないですか。楽しませてくれるのも人だし、悲しませてくれるのも人だと、わかってくるんですよね」
「常に人間は基本を作れ」
経営者になってからも松谷は安閑とあぐらをかいたわけではなく、がむしゃらに勉強をし続けた。
学生時代、プロ野球を目指す者にとって野球強豪校に進学すると、どうしても勉強は二の次になってしまいがちだ。私立だと「体育科」と称して午後は体育の授業の一環として部活動に当てられるところもある。松谷は公立高校だったが、それでもどうしたら球が速くなるのか、だけを考えて学生時代を過ごしてきた。当時アマチュアでは理論的に教えてくれる人などほとんどいなかった。自分で『あなたは名投手になれる』という本を買って見よう見まねの独学で練習をしていたのだ。
勉強という作業に慣れていない松谷だったが、代表取締役になって覚えることが山ほどあった。決算書の見方から業界のこと、金融機関、税法……人からも教えてもらいながら勉強していく。最初の5、6年間は自己啓発本を含め書物を読み漁り、知識をどんどん植え付ける。
松谷のベースは、どこからどうみても野球しかない。野球も途中でわからなくなったら基本に戻って一から始める。キャッチボール、トスバッティング、ランニングなどで下半身をしっかり作る。基本から土台を作って、その上にテクニックを乗せる。ダメだったら戻る、その繰り返し。基本があるから応用があるのであって、基本がなかったら戻れるところがなくなるから何をしていいかわからなくなる。テクニックは基本があればなんぼでも身につく。だから“常に人間は基本を作れ”と念じる。
訳のわからないことになったら基本に立ち返って一から始めればいい。