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鹿島の「ジーコスピリット」を言語化したのは“世間的にあまり知られてない兄”だった? 陰の仕事人エドゥーが明かす“弟ジーコ裏話”
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada/Sports Graphic Number
posted2023/09/03 11:01
ジーコの兄エドゥー。弟の存在をどのように見ていたのか
「弟たちから聞いていたことは、すべて事実だった。日本人選手が指導者の指示を素直に聞き、すべて忠実に実行しようとすることに感銘を受けた。ブラジル人選手は、必ずしもそうじゃないからね(笑)。
ただ、意外なことがあった。自分は監督ではなく、ミヤモトさん(宮本征勝)のコーチだった」
宮本監督との軋轢があったとのウワサは…
――どういうことでしょうか?
「ジーコから『チームを指導してくれ』と言われていたから、自分が監督だと理解していた。ところが、実際には監督ではなくコーチだったというわけだ。でも、練習を指揮し、戦術を決め、試合前に選手に話をし、選手を選んだのは私だった」
――それでは、宮本監督と軋轢が生じたのでしょうか?
「いや、そういうわけじゃない。彼はとても温和な人物だったから――」
――1994年のファーストステージは、16勝6敗で3位。宮本監督が退任し、あなたが監督に昇格したセカンドステージは、11勝11敗の5位。年間総合順位は3位でした。
「1994年は、ファーストステージ限りでジーコが引退。戦力ダウンもさることながら、強力なリーダーシップを取れる選手が必要だった。それまでジーコがいないときはサントスが主将を務めていたが、チームの将来を考えると日本人のリーダーが欲しかった。そこで、まだ若かった(注:当時25歳)が常にチームのことを考えて行動できるホンダ(本田泰人)をキャプテンに指名した」
――1995年は、ファーストステージが8位、セカンドステージが6位。年間総合順位が7位という結果でした。
「当時は、チームがまだ発展途上だった。それでも、1994年のワールドカップ(W杯)でセレソンの一員として世界の頂点に立ったジョルジーニョが加入し、主としてボランチとして攻守に奮闘し、リーダーシップも発揮してくれた。
1994年以降、MFホンダ、CBアキタ(秋田豊)、FWハセガワ(長谷川祥之)、左SBソウマ(相馬直樹)ら若手に技術と戦術を叩き込んだ。タイトルには手が届かなかったが、彼らの成長がクラブの土台を築き、1996年のJリーグ初優勝、そしてその後のタイトル獲得につながったと自負している」
ジョルジーニョを鹿島へと連れてこられたワケ
――ジョルジーニョを鹿島へ連れてきたのはあなただそうですね。