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鹿島の「ジーコスピリット」を言語化したのは“世間的にあまり知られてない兄”だった? 陰の仕事人エドゥーが明かす“弟ジーコ裏話”
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada/Sports Graphic Number
posted2023/09/03 11:01
ジーコの兄エドゥー。弟の存在をどのように見ていたのか
「彼とは、私がアメリカFCのU-20の監督で彼が18歳のときからの付き合いだ。当時から野心、闘志、リーダーシップが傑出していた。1994年後半、あるフットボール関係者から『ジョルジーニョ(当時バイエルン・ミュンヘン)が退団を考えているらしい』と聞いた。そこで『ジョルジーニョを獲得できるかもしれない』とジーコに伝えた。
当初、ジーコは1994年限りで退団するアルシンドの代役を欲しがっていた。しかし、私は『ツートップはクロサキ(黒崎久志)とハセガワで大丈夫。中盤でプレーして、ホンダと共にリーダーシップを発揮してくれる選手が必要だ』と言って彼を説得した。
バイエルン・ミュンヘンとアントラーズの間で交渉がまとまり、彼を獲得に成功した。その後、彼は私の期待に応え、1998年までの4年間、多くのタイトル獲得に貢献してくれた」
ジーコスピリットと育成するノウハウを言語化した
――鹿島で、あなたはピッチ外でも大きな貢献をしたそうですね。
「ジーコスピリットを『献身、誠実、尊重』の三つの言葉に集約し、それをクラブの永遠のモットーとした。また、選手を体系的に育成するノウハウを小冊子にまとめた。この内容を骨子として、後にブラジルで『フットボールの幼年から大人までの感覚メソッド』という本を出版した」
――1995年末をもって、鹿島を退団します。
「そのまま日本に残り、相模原(神奈川県)に設立されたジャパン・スポーツ・サイエンス・カレッジというフットボールの各分野のプロを養成する専門学校の責任者となった。さらにその後、三重県松阪市に設立されたエドゥー・フットボール・センター(CFE)で若い選手を育成した」
◇ ◇ ◇
日本でのフットボーラー育成に勢力を費やすエドゥーの元に、日本代表スタッフ入りの話が来ることになる。それはジーコ代表監督就任がきっかけだが、当時の会長だった川淵三郎氏の思いもあったのだという――。
<第2回に続く>