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「アイツ、霊感が強いらしい」ルーキー伊良部秀輝と同部屋に…ロッテ名捕手が明かす“異端児たち”の本当の顔「なぜ村田兆治と一緒に引退したか」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byTabun Matsuzono
posted2023/08/05 11:00
ロッテ、西武でコーチ経験がある袴田英利
伊良部が日本人最高球速を更新した時、いずれも清原との対決だった。互いの潜在能力を引き出し合った2人の対決は、平成の名勝負と呼ばれた。
「パ・リーグでは、投手と打者が意地をぶつけ合って、切磋琢磨していった。村田(兆治)さんは清原と初めて対戦した後に『あんまり速くなかったですね』というコメントを見て、次の勝負では内角に3球投げて、身体をのけぞらせていましたね」
村田兆治の電話「最後はおまえが受けろ」
村田兆治、水谷則博、仁科時成、伊良部秀輝など多種多様なタイプの球を受けてきた袴田はリードの引き出しも増え、捕手として円熟味を増していた。
しかし、90年に復帰した金田正一監督は世代交代を加速させようとした。シーズン中の6月、監督室に袴田を呼んで、こう告げた。
「一軍のバッテリーコーチをやってくれ」
「まだ現役を続けたいので、勘弁してください」
引退勧告を断った翌日、35歳の袴田は二軍落ちした。それ以降、400勝投手の“絶対君主”金田から声が掛かることはなかった。悶々とした気持ちを抱えながらも、浦和の二軍グラウンドで必死に汗を流していた8月、袴田に衝撃が走った。
村田が首位を独走する西武打線に1対0で完封勝ちした翌朝、スポーツ紙を開くと〈村田完封8勝「最後のひと花」引退示唆発言〉(日刊スポーツ/90年8月25日)という見出しが目に飛び込んだ。後日、その言葉に偽りはないと明らかになった。
「引退試合はマスクを被りたいと思いましたけど、監督に逆らっていたから無理だなと。そしたら、兆治さんから『最後はおまえが受けろ』と電話が掛かってきた。『金田さんは大丈夫ですか』と聞いたら、『俺が言っとくから心配するな』と。周りは僕も引退すると思っていたようで、試合前に球団から『おまえは(スピーチは)ないからな』と言われていました」
複数の球団が経験豊富なベテランに声を掛けてきた。袴田は村田に「あと2、3年現役を続けます」と言った。