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「アイツ、霊感が強いらしい」ルーキー伊良部秀輝と同部屋に…ロッテ名捕手が明かす“異端児たち”の本当の顔「なぜ村田兆治と一緒に引退したか」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byTabun Matsuzono
posted2023/08/05 11:00
ロッテ、西武でコーチ経験がある袴田英利
「いつも思いましたよ。ノーサインで捕ってみろって(笑)。本当に言い返したくなった時もありました。村田さんは『高めのストレートで三振を取りたい』とよく言っていた。だから、追い込んだら中腰で構えました。でも、たまにフォークを放ってくるんですよ。あの時は困りました」
コーチ・スカウトに…里崎智也の登場
袴田の愚直なほど真っ直ぐな人柄は、球団内にも伝わっていた。引退の意思を伝えると、代表から「ウチに残ってコーチをやってくれ」と依頼を受けた。
「他球団で現役を続けるか迷いましたけど、あの時にロッテで引退して良かったと思います。まだ30代でしたから身体も動いて、手本を見せられましたからね」
黄金バッテリーの引退後、ロッテの球団体質は徐々に変わっていった。92年、設備の整わない川崎球場から新設されたばかりの千葉マリンスタジアムに本拠地を移し、チーム名もオリオンズからマリーンズに刷新された。95年には広岡達朗ゼネラルマネージャー、ボビー・バレンタイン監督のもと10年ぶりの2位につけたが、2人の蜜月は1年ともたなかった。
「バレンタインも1回目の95年はアメリカ式で練習時間が短かった。それで広岡さんと揉めた。2回目の2004年からは日本のやり方に理解を示すようになっていました。(一・二軍巡回コーチの)高橋慶彦が西岡(剛)や小坂(誠)を引っ張って、よく個人練習をさせていました」
袴田や西村徳文などロッテの生え抜き、高橋や佐野嘉幸という黄金時代の古葉カープ出身のコーチ陣が上手く噛み合い、ボビー・マジックが炸裂した2005年、ロッテは31年ぶりの日本一に輝く。袴田がスカウト時代(98~99年)に目をつけ、逆指名に漕ぎつけた里崎智也が躍進の原動力になった。
「初めて帝京大学に見に行った時、内野を中心にプレーしていました。でも、肩も強いし、フットワークもいいから、捕手として獲ったんですよね。僕の現役時代、頭ごなしにガーッと言う指導者が多く、もっと選手の話を聞いてほしいなと思っていた。だから、コーチとして一方通行にならないように気をつけていました。山本五十六の『やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ』をモットーにしました」
監督がバレンタインから西村徳文に替わった2010年、ロッテはシーズン3位から下剋上を果たし、日本一に輝いた。気付けば、袴田は現役時代から30年以上も同じ球団で働いていた。そんな功労者にあまりに呆気ない解雇通告が迫っていた――。
〈つづく〉