熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「クロアチアより日本を警戒していた」元ブラジル代表コーチ・サンパイオの“W杯ガチ森保J評+ウラ話”「ミトマはネイマール、メッシに匹敵」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byPatrick Smith-FIFA/Getty Images
posted2023/07/30 11:02
カタールW杯ブラジル代表コーチを務めたサンパイオに、母国のセレソンと日本代表について“ココだけの話”を聞いた
「もちろん、じっくり検討させてもらうよ。日本は、僕と僕の家族にとって絶対に忘れられない国、まさしく第二の故郷だからね。
2017年、サンフレッチェ広島のクラブ創立25周年のイベントに招待されて妻と一緒に日本へ行き、広島、柏のクラブ関係者と旧交を温めた。
また、僕と妻のためにかつてのフリューゲルスの選手や関係者が横浜に集まってくれ、焼き肉を食べた。ヤマグチ(山口素弘)、コージ(前田浩二)、モリ(森敦彦)、サツカワ(薩川了洋)、ナガイ(永井秀樹)、クボヤマ(久保山由清)、ハト(波戸康広)、セト(瀬戸春樹)、さらにはクラブの事務所で働いていた女性たちまで……。本当に感激した。彼らは、生涯の友人だ」
波乱万丈の55年を自ら切り開いてきた
幼少期、貧しさゆえに2年間の“一家離散”を経験した。誰に対しても反抗的で、周囲の人から「ろくな人間にならない」と決めつけられた。10代前半、4クラブの入団テストに不合格となり、悲嘆にくれた。その後、過酷極まりないスケジュールで二つのクラブを掛け持ちで練習し、がむしゃらにプロ選手を目指した。そして、ついに名門クラブでプロ契約を勝ち取り、国内トップクラスの選手に成長して、セレソンにも招集された。
ところが、1994年W杯には招集外で悔し涙を流し、新天地・横浜フリューゲルスへ。Jリーグでのプレーが高く評価されて1998年W杯に出場して準優勝したが、その数カ月後、唐突にクラブの吸収合併を知らされる。それでも最後の置き土産として、仲間と共に天皇杯優勝の“奇跡”を成し遂げた。その後、柏レイソル、サンフレッチェ広島でもプレーした。
現役引退後は多彩な活動を行ない、2022年W杯にブラジル代表のコーチとして参加。今後は、本格的に指導者の道を目指す……。
セザール・サンパイオのこれまでのキャリアと55年の人生は、波乱万丈だった。険しい道のりを――自身の努力と才覚、そして節目、節目で出会った恩人に助けられ、切り開いてきた。
彼の優しく人懐こい笑顔の裏には、数々の修羅場を潜り抜けてきた男の凄みが潜んでいる。