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「寝耳に水。悔し涙を流した」“横浜フリューゲルス消滅の舞台ウラ”元ブラジル代表MFサンパイオが激白「奇跡の優勝? 僕はそう思わない」
posted2023/07/30 11:01
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Naoya Sanuki
サンパウロで4人きょうだいの3番目として育った少年は、貧しさゆえの一時的な一家離散、4クラブのアカデミーの入団テスト不合格といった苦難を乗り越え、サントスFCとプロ契約。ドゥンガを師として成長し、国内トップクラスのボランチとなってセレソン(ブラジル代表)にも招集された。一時は欧州強豪クラブへの移籍を思い描いたが、1995年、横浜フリューゲルスへ移籍する。
W杯を一旦忘れ、条件面を優先してJリーグへ
――1995年、パルメイラスでチームメイトだったMFジーニョ、CFエバイールと共にフリューゲルスへ入団します。そのいきさつは?
「1994年後半、当時世界最強リーグだったイタリア・セリエAの名門ローマからオファーを受けた。しかし、条件面でクラブ間の合意が成立しなかった。 その後、フリューゲルスからオファーをもらったんだ。当時在籍していたエドゥー・マランゴンとバウベル(いずれもMF)に聞いたら、『日本は素晴らしい国だ。クラブの練習環境もいい。絶対に来るべきだ』と言われた。
当時は幼い娘が2人いて、妻は地震を怖がっていた。でも、僕は『大丈夫だよ』と妻を説き伏せた。2年契約で、さらに2年延長するオプション付き。その後、ジーニョとエバイールも移籍が決まり、僕も心強かった」
――1990年にセレソンに初招集され、1993年のコパ・アメリカ(南米選手権)にも出場したものの、1994年ワールドカップ(W杯)は招集外でした。創設間もないJリーグへ行くと1998年W杯出場が困難になる、といった懸念はなかったのですか?
「それは考えた。でも、ブラジル国内であれだけ頑張ったのに1994年W杯に招集されなかった。1998年W杯のことは一旦忘れ、条件面を優先して移籍を決めた」
ドゥンガがフリューゲルスに? えええ、初耳だ
――先日、ドゥンガにインタビューした際に「1994年W杯の後に数カ国のクラブからオファーを受けたが、日本のクラブで最初に声をかけてくれたのはフリューゲルスだった。口頭で合意したが、その後、先方が『申し訳ないが、事情が変わったので……』と断ってきた。そして、サンパイオらパルメイラスの3人を獲得したのを知り、『自分の代わりに3人を獲得したのだ』と合点が行った」 と話していました。
「えええ、それは初耳だ。知らなかった。もしフリューゲルスがドゥンガを獲得していたら、彼とポジションが被る僕が入団することはなかっただろうね」
――Jリーグの組織運営とレベルをどう思いましたか?