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プロ野球PRESSBACK NUMBER
プロ野球4年で戦力外通告、打撃投手も1年でクビ「23歳で“高卒”を痛感した…」“元阪神タイガース投手”が明かす暗黒バイト時代と逆転人生
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph bySankei Shimbun
posted2023/06/27 11:00
阪神タイガース時代の奥村武博さん。同期には井川慶や智弁和歌山高の監督を務める中谷仁らがおり、ルーキー時代の藤川球児の指導係も担った
「単純に投げているボールでいうと、球児よりも井川の方がインパクトはありました。当時の球児は福原(忍)さんみたいなキャッチボールでも怖い、と感じるようなボールではなかったんです。ただ、球児は常に頭を働かせながら野球をしており、ルーキーイヤーから自分なりの投球理論を持っていた。それがあったからあそこまでの投手になれた、というのが間近で彼を見てきた私の印象です」
後輩にも触発され、3年目のシーズンを迎える頃には野村克也監督から「小山(正明)2世」と名指しで指名され、オープン戦からチャンスを与えられ結果も残していた。しかし、その後肋骨を骨折、翌年には右肩の故障を発症し、その年の秋に戦力外通告を受けた。
NPB4年間での通算成績は一軍登板ゼロ、ファームで25試合登板という結果に終わった。
「プロ生活の終わりは編成の人に呼び出されて、『来年は契約しない』と一言だけ。こんなにあっさりと終わりなんだ、と一瞬の出来事すぎて正直よく覚えていないんです。だから、諦めきれなかったという部分もあるんです。今でも時々、3年目に怪我がなければ違った人生だったかもしれない、と頭を過ることがありますよ」
引退後は打撃投手に…だが1年でクビ
球団の温情で翌年は打撃投手としてチームに残るオファーをもらった。打撃投手をしながらプロで生き残る道を模索したい、という思いもあり奥村は申し出を受けた。だが、プロ続行を望む奥村の意思に「打撃投手」という職業は相反するものだった。打者に気持ちよく打たせるのが仕事のはずが、快音を響かされることにストレスが溜まっていく。結果、力みから持ち前のコントロールは見る影もなくなり、ボールもムービングボールしか投げられなくなっていった。
心と体の乖離は埋め難く、それを修正する技術やノウハウも持ち合わせていなかった。結果的に打撃投手としても見切りをつけられ、わずか1年間でクビを切られた。
“二度目の戦力外通告“を経て23歳となった頃には、野球界への未練はすっかり立ち消えていた
「履歴書に“阪神タイガース”と書かなかった」
その後はすぐに友人と大阪市内でバーを経営。藤川をはじめとした、奥村を慕う後輩や先輩が時折顔を見せてくれたが、経営は決してうまくいっていたわけではなかった。自身が派手な遊びで失敗したという負い目もあり、「同じ轍を踏ませたくない」と選手達に自ら声をかけることもしなかったという。奥村なりの気遣いであり意地でもあったが、その後バーはあえなく閉店。
以降はホテルの調理場、深夜のインターネットカフェ、宅配便の配達員などのバイトを掛け持ちして食いつないだ。野球以外の人と接する目新しさもあり悲壮感は感じることはなかったが、漠然とした将来の不安は日に日に大きくなっていった。
「バイトの履歴書には、阪神タイガースという名前は一切書かなかったんですよ。でも、さすがに気づかれるだろうと思っていたら、驚くほど誰も気づかないんです。それで、野球選手という肩書がなくなるとただの高卒なんだ、と痛感したんです。自分の無力さを感じるとともに、焦燥感ばかり募っていく日々でしたね」
同期入団の井川は2003年にリーグで20勝をあげて優勝の原動力となり、球界を代表する投手へと成長。その後、2006年には「5年総額2000万ドル(=23.6億円/当時)」で名門ヤンキースの一員となった。一方の奥村は、ホテルでメロンの種をかきだし、しいたけの軸をちぎるという単純作業で「日給7000円」程度だった。
「いったいどこでこんなに差がついたのか。あの時は本当のどん底でした」
そんな時、奥村はある恩師の姿を思い返していた。
(つづく)
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