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甲子園準優勝ピッチャーの「その後」 早稲田大で絶望の日々→“フリーター生活”を経て…元仙台育英・芳賀崇が“高校教師”になるまで
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byGenki Taguchi
posted2023/04/05 11:01
2001年センバツの準優勝投手、芳賀崇がいま明かす「激動の高校卒業後」
学生コーチとなってからは、エースの芳賀ら主力であろうと「悪いものは悪い」と論旨を立てて指摘できる芯の強さを示した。監督の佐々木順一朗から叱責を受けてもその悔しさを押し殺し、練習では指示を出す。3年生のメンバー外と下級生のベンチメンバーの微妙な関係性を取り持つのも須江の役割だった。
「私も『ピッチャーの面倒をもっと見ていれば』と反省するくらい、須江に任せっきりでした。本人は大変だったでしょうね」
それだけ心血を注ぎ、想いを燃焼させた須江だからこそ、高校までで野球を離れるものだと思い込んでいた。
須江の熱量はグラウンドで生き続けた。八戸大(現八戸学院大)を卒業後に秀光中、18年からは系列の母校を率いた須江は、中学と高校で日本一の監督となった。
飛距離、機動力、球速、制球力と選手の特性を把握し、試合結果などを数値化した上で、一人ひとりと向き合う指導は学生コーチだった高校時代が原点だと、芳賀は推察する。
「本人の経験もあると思います。マメな性格なんで、ちゃんと理由付けして生徒を納得させられるんです。チームをひとつにまとめるのが上手だと思いますね」
エースと学生コーチ。仙台育英ではいわば、光と影のような存在だったふたりは、高校野球の監督となった。
「生きてんのもしんどいな」芳賀の卒業後
芳賀が「意外だった」と驚くほど、須江は一本道でキャリアを高める。自分はと言うと違う。回り道を経て、指導者となった。
2001年のセンバツで準優勝。野球のエリート街道を進むことを半ば約束されたような芳賀の分岐点は、早稲田大での4年間だ。
結果から述べれば、芳賀は大学で公式戦のマウンドに一度も立つことはなかった。度重なる故障も響いたが、先輩との人間関係にも悩むことがあったと、芳賀が漏らす。
「大学を辞めようと真剣に考えたこともありますし。正直、『生きてんのもしんどいな……』ってくらいへこむこともありましたかね」
大学で4年間、野球を続けられたのは、大学野球部のOBから「芳賀はここにいますって伝えるためにも辞めるな」と背中を押されたからだ。高校まで試合に出ることが当たり前だった男は、そこで「苦しんでいる選手、いっぱいいるんだ」と、視野が広がったという。
早稲田卒業→アルバイト生活
早稲田大卒業後に4年間続けた居酒屋でのアルバイトも、芳賀にとっては財産となった。