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中学時代に新聞配達→給料は野球用具に…22年前の甲子園“準優勝ピッチャー” 芳賀崇が明かす仙台育英時代「あの決勝戦の後悔」
posted2023/04/05 11:00
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
KYODO/Genki Taguchi
母校・仙台育英に「0-10」
芳賀崇が高校野球の監督となって初めて母校と対戦したのは、2021年の秋だった。
宮城県の中部地区予選1回戦。芳賀が指揮する仙台東は、同級生の須江航が率いる仙台育英に0-10の5回コールドで大敗した。
「日本一になるチームの公式戦初戦ですよ。『いいスタート切ったよなぁ』って、ははは。力の差があることは知っていましたけど、『それにしても0対10か……』って」
相手が母校であろうと、精魂込め作り上げている仙台東が圧倒された悔しさが、芳賀の苦笑いに映し出されていた。
一方、どこかで安堵する自分もいた。
どんな相手にも手を抜かず、力を堅持する。高校時代に苦楽を共にした須江が監督だということもあるが、仙台育英のマインドは今も変わらず息づいていると実感できた。
「東の子たちと一緒に立ち向かって倒したい相手ではありますが、先輩として仙台育英を見ると『日本一しか目指してないな』ってわかりますよね。僕らの時代もそうでした。どんな相手でも嘗めるようなことはありませんでしたけど、上しか見てなかったですから」
僕らの時代――彼らは2001年、センバツでは東北勢初の決勝進出を果たし、準優勝となった世代である。とりわけ芳賀は、上を目指す仙台育英のなかでも「敗けるわけがない」というプライドが誰よりも強い選手だった。
「新聞配達を…」芳賀の中学時代
バックボーンとなっていたのは努力だ。月並みな表現だが、これに尽きる。
中学時代。エースで4番、学校では生徒会長を務めていた芳賀の日課は朝の新聞配達だった。他の配達員が自転車などを使用するなか、自分はランニングして回った。労働で得た給料はユニフォームやグローブといった野球道具の購入に充てるなど、中学生ながら自立していた芳賀を支えていたのは「これだけやってるんだ」というハングリー精神である。こうした歩みがあったからこそ全国大会ベスト8と実績を残せたし、宮城の名門・仙台育英に入ることもできた。