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絶望の戦力外通告から3年…元日本ハム・岸里亮佑が語る“プロ野球選手の肩書”を捨てるまで「切り替えようと思っても無理でした」 

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田中仰

田中仰Aogu Tanaka

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photograph byNumberWeb/ SANKEI SHIMBUN

posted2022/12/28 11:02

絶望の戦力外通告から3年…元日本ハム・岸里亮佑が語る“プロ野球選手の肩書”を捨てるまで「切り替えようと思っても無理でした」<Number Web> photograph by NumberWeb/ SANKEI SHIMBUN

現役時代の岸里(左)。現在は日本テレビが運営する「ドリームコーチング」の人気コーチとして活躍している

「どんだけ待たすん?」大谷翔平の言葉に

 少しずつ一軍に呼ばれるようになったある日、大谷翔平から食事に誘われた。寮で同部屋だった高校時代のような他愛のない話の合間に、ぽつりぽつりとさりげないエールがあった。

「早くマウンドの後ろで守ってよ」「どんだけ待たすん?」

 岸里の苦悩を気遣いながらも、深刻にならないようにあえて軽い雰囲気で言ってくれているのが大谷らしかった。

「精神的にちょっと参っていた時期だったので、僕にとってはやっぱり心強い言葉で。スイッチが入ったというか、もう少し頑張ろうかって思えました」

 高まるモチベーションとは裏腹に、体の状態は好転しなかった。それどころか、5年目シーズンを控えた18年1月に左鼠径(そけい)のヘルニアを手術することになり、全治2カ月の診断を受けた。ほぼ同時に足首の靭帯も負傷。満身創痍の日々も、同じ時期にメジャー挑戦が決まった大谷の言葉を支えに踏ん張った。

 肉離れで離脱した2年目のキャンプ時と同様、このときも本当にこたえたのは“ケガの後”だった。

「感覚が戻ったイメージがあったので、盗塁のスピードと遠投の距離を測定したんです。良かった頃に戻ったんじゃないかと期待して」

 しかし、数字を見て呆然とした。

「速く走れた感覚があっても、1、2年目より遥かにタイムが落ちている。足が遅くなっていたんです。追い求めていた感覚も信じられなくなったというか。ショックでした」

 相次ぐケガ、感覚のズレ、身体能力の低下……。1年目オフの増量が引き金になった悪循環を、結局止めることはできなかった。

 そして、6年目を終えようとしていた19年9月30日。岸里のもとに一本の電話が入り、球団事務所に呼び出された。

【次ページ】 トライアウト後に言われた核心をつく言葉

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