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絶望の戦力外通告から3年…元日本ハム・岸里亮佑が語る“プロ野球選手の肩書”を捨てるまで「切り替えようと思っても無理でした」 

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田中仰

田中仰Aogu Tanaka

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photograph byNumberWeb/ SANKEI SHIMBUN

posted2022/12/28 11:02

絶望の戦力外通告から3年…元日本ハム・岸里亮佑が語る“プロ野球選手の肩書”を捨てるまで「切り替えようと思っても無理でした」<Number Web> photograph by NumberWeb/ SANKEI SHIMBUN

現役時代の岸里(左)。現在は日本テレビが運営する「ドリームコーチング」の人気コーチとして活躍している

「来年は構想に入っていない」

 24歳で受けた戦力外通告だった。

「ケガが多かったので覚悟はしていたんですけど。いざなってみるとショック……いや、何て言うんですかね。頭に浮かぶんです、担当スカウトやサポートしてくれた方々の顔が。あぁ、自分は期待に応えられなかったんだな、と」

トライアウト後に言われた核心をつく言葉

 この先の人生をどうするのか――メディアから度々質問を受けた。「決まってません」。未定であることは事実だったが、何より考えられる状況ではなかった。トライアウトまでの1カ月間は、今も「覚えていない」と言う。

「切り替えようと思っても無理でした。ケガが多かった分、球団には手術費用にお金をかけていただきました。僕なんかのために専属で協力してくれたバッティングピッチャーの方にも、『お前が復帰してくれることが恩返しになる』と言われていて。期待に応えられなかったことに対して、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいで……」

 半ば呆然としたまま迎えた11月中旬のトライアウト。そこで放った2本のヒットのことはあまり覚えていない。それでも、あるスカウトに言われた一言は核心をついていた。

「なんで盗塁しなかったんだ?」

 ヒットを2本放った岸里には、盗塁のチャンスが2度あった。6年前のドラフト指名挨拶時、「盗塁王になります」と宣言したほど自信があった足。しかし、その持ち味を絶好の機会で見せようとすら思えなくなっていた。

 それでも同年誕生した沖縄初のプロ野球チーム「琉球ブルーオーシャンズ」の田尾安志ゼネラルマネージャー(当時)の目に止まり、声をかけられた。ひとまずトライアウトには出たが、今後については何も決めていない。ならば、と思った。NPB球団の多くが沖縄でキャンプを張り、二軍、三軍との交流戦が予定されている琉球ならアピールできる。もう少しだけ野球を続けてみようと。

 結論から言えば、NPBのチームとの試合は2月のキャンプで数試合行われた程度だった。プロ野球が3カ月遅れで開幕したように、コロナ禍の影響を受けたのだ。選手やスタッフの感染状況によってチームも活動の再開と休止を繰り返した。試合が決まっても、相手は沖縄県内の社会人チームがほとんどだった。

 今考えれば、沖縄で過ごした期間は岸里にとって、気持ちを整理するための時間だったのかもしれない。自分の能力を鍛えるよりも、NPB経験者として大学や独立リーグ出身の若い選手たちに教えることがメインになった。自分の中で少しずつ「現役プロ野球選手」という認識が薄れていくのがわかった。

【次ページ】 「やっぱり野球から離れることはできなかった」

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