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サムライブルーの原材料BACK NUMBER
背番号3を受け継いで…松本山雅の象徴・田中隼磨40歳が天国の松田直樹に捧げた現役最終戦「マツさんなら絶対、お前情けねえなって…」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJ.LEAGUE
posted2022/12/19 11:02
J3最終節の相模原戦、後半42分からピッチに立った松本山雅の田中隼磨。この試合で22年間のプロキャリアに終止符を打った
覚悟ーー。
レギュラーを張っていた名古屋グランパスから契約満了を告げられ、他のJ1クラブから誘いがあったにもかかわらず、選択肢はJFLからJ2に昇格して3年目となる山雅の一択だった。当時は練習場を転々としていて、クラブハウスもない。練習着やユニフォームの洗濯も自分でやらなければならないという厳しい環境も、前向きに受け入れた。
「ボール回しの練習一つとっても、回されているほうがヘラヘラしてしまっていては試合じゃ絶対に勝てない。ミニゲームにしたってそう。敢えて中心選手に“そんなんじゃダメだよ”ってきつく言ったことも結構あります。もちろんそこは信頼関係があるからだし、何よりも言った張本人が一番やらないといけない。日々そうやっていたら、もし試合で負けたってまだ納得がいく。だから毎日が勝負でしたよね」
J1で300試合以上を戦い、横浜F・マリノスでもグランパスでもリーグ制覇してきた。自ら率先してきついことに取り組み、チーム内の求心力を高めていく。ユニフォームを汚すまで泥臭く走り、食らいついていく魂のサッカー。田中は反町が標榜するスタイルを先頭に立って実践し、周りを巻き込んでいった。ケガだからといって簡単に離れるわけにはいかない理由があったのだ。だからこその“勲章”――。
現役引退を決め、名波監督に伝えると…
やっとの思いで全体練習に合流できたのが、10月30日に行なわれる長野パルセイロとの”信州ダービー”の週だった。J2昇格に向けて少しでも力になりたいという思いで、大一番に間に合わせようとした。患部に痛み止めの注射を打ち、紅白戦に出場できるまでのコンディションに持っていった。
だが、久しぶりに紅白戦でプレーした翌日、リバウンドが出てしまう。「何とか一歩踏み出して反応を見ようと思った」チャレンジだったが、私生活でも階段が上り下りできないほどになってしまった。ベッドからも起き上がれず、体を動かすことすらままならなかった。
右ひざさえよくなればまだまだやれるという思いがある一方で、2年間ほぼチームに貢献できていない現実と向き合った。覚悟は固まった。チームがアウェーでテゲバジャーロ宮崎に敗れた11月13日の夜に現役引退を決め、まずは家族に伝えた。クラブ、名波監督、そしてチームメイトと順に伝えていくなかで、指揮官からは「最後、少しの時間であってもお前を起用する」と言ってもらえた。
松田の家族にも、事前に引退を報告していた。「マツさんに背番号を戻します」と伝えると、姉・真紀さんからこう言葉が返ってきた。